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瀬戸明「存在と知覚」を読む

量子力学の観測問題につきまして、このところ、科学哲学という立場から少々掘り下げを行っているのですが、本日はその一環として、瀬戸明著「存在と知覚―バークリ復権と量子力学の実在論」を読むことにいたしましょう。

同書は、マルクス主義者であります瀬戸明氏が、バークリの実在論に依拠してレーニンの存在論を否定し、量子力学の観測問題にも言及するものですが、まず、何でいまさらレーニン、という疑問がありますし、そもそも主客一致問題にどのように対応するかという、哲学の基本的疑問が解決されておりません。当然のことながら、現象学や構造主義に関しましても、全く言及がなく、20世紀初頭の知識をベースにした議論である、ということもできるでしょう。

一言でいえば、いまさらこのような書物を書こうと考えた理由が解せませんし、普通の人間にとりまして、読む必要などさらさらない書物である、といえるでしょう。

とはいえ、このブログでは存在論と量子力学の扱いにつきまして議論を展開しておりますだけに、一応は同書の内容に振れておくのも悪くはないか、と思いご紹介する次第です。

さて、問題となっておりますレーニンの存在論ですが、同書によりますと次のようになります。

レーニンがもっぱらエンゲルスの『フォイエルバッハ論』に依拠する形で、《物自体とは、私たちの感覚の外にある、しかも認識可能な未知なる物である》という定式化を行っているのは、まぎれもない事実である。カントの物自体主義から不可知論を除去してやりさえすれば、その物自体はごく自然に《認識可能な未知なる物》に等しくなる、ということなのだろう。

これはたしかに、著者の言うように、ずいぶんと乱暴な考え方である、と思います。「不能」を「可能」に変えてしまっては、カントの考え方は180度変ってしまい、カントが行った外界の事物と観念との分離が完全に否定され、外界の事物と観念が一致しうる、ということになってしまいます。

そんなことはありえない、という話の流れが、実は主客一致論争の流れでして、結局のところ実在論の礎は、カント流の観念論と、(私の認識によれば)その発展形であるフッサール流の現象学へと移さざるを得ないものと、私は考えております。

とはいえ、著者もこのようなレーニンの安易な考え方は否定しており、次のように続けます。

レーニン唯物論および弁証法的唯物論に独自の物自体主義によれば、現象と物自体のあいだには、原理上のどんな本質的差異もみられない。もしも両者に相違点があるとすれば、それは日常的な外的事物について“すでに認識されたもの”と“いまだ認識されないもの”のあいだにある区別に過ぎない。それゆえ物自体が現象するとは、《無知識から知識が現れる》こと、すなわち、日常世界における《たんに“未知なる具体的事物”が私たちにとっての“既知なる具体的事物”になる》だけの話にほかならない。
……
いったい、未知なる物(いまだ認識されないもの)などという無内容に近い日常用語が、はたして唯物論哲学の重要カテゴリーになりうるものだろうか。ドイツ古典哲学の中心問題の一つである「物自体」概念の本質は、たんに《私たちの感覚の外にある認識可能な未知なる物》と平板に規定するだけで、ほんとうにすべて究明されてしまったのだろうか。

筆者は、このようなレーニン唯物論および弁証法的唯物論にみられる理論的安易をきびしく糾弾するとともに、《物自体とは“疎外された知覚”にほかならない》とする根本の批判命題を、このさい、新しい唯物論(存在論)の哲学的存在論がとるべき原則的な出発点として提起したいと思う。

さて、この「疎外」ですが、日常用語では「疎んじられる」、わかりやすい用語では「仲間はずれにされる」などという意味合いを持つのですが、哲学的な用語としては、少々異なる意味合いで用いられます。たとえば、上のWikipediaのリンクには「あるものが私とは無関係であるという場合、そのあるものに対して私は無力なものとして疎外されていることになる」という意味の言葉として述べられています。

となりますと、『物自体が“疎外された知覚”である』というのは、「物自体とは知覚とは無関係である」という意味合いと解釈しても良さそうなのですが、「実在とは知覚されることである」とするバークリの実在論を著者が支持しておりますことからは、少々外れているように思われます。

まあ、ここは、「主体である私が本来持っているはずの知覚」が、「私から離れたものとして存在する」のが物自体である、という意味と解釈いたしますと、これはさほど外しているようにも思われません。

私の実在論によりますと、「実在(物自体)とは人とかかわりなく存在するものであり、人が概念を見出す原因である。そして人はその原因の存在を概念自体の存在として理解する」というものでして、本来人の精神的働きの内部にあるべき概念を、人は外界の実在の上に投射してみている、ということになります。

これを「疎外」と表現するのは、私にはなんとなく違和感があるのですが、このあたりがマルクス主義者のマルクス主義者たる所以、というものなのかもしれません。

さて、この書物では物体の「第一性質」と「第二性質」ということが議論されます。これはなんと、デカルトが語りました、物のもつ性質の「延長」と「属性」とに相当するもので、デカルトによりますと「延長」は人とかかわりなく存在する一方で、「属性」すなわち、色や硬さなどは人の感覚により知ることができる性質であるとされております。

しかし、「延長」にしたところで、人が認識するから延長(すなわち物の広がり)が認められていること、色や硬さとなんら異なる事情ではなく、このようなことは議論するまでもないことであるように私には思われます。

シュレディンガーの猫に関しても、著者は言及しているのですが、このような巨大な物体が波動的状態であるはずがない、との著者の主張はなんら目新しいものであるようには思われません。

哲学というもの、哲学史という切り口からは、確かにデカルトやロックの哲学を語ることに価値があると思うのですが、今日のわれわれがもつべき世界観について論じるのであれば、その後の哲学思想の進歩を織り込んだ形で論じるべきではないか、という思いを、同書を読んで強く受けた次第です。

まあ、この点につきましては、自戒を込めて、ということではあるのですが、、、


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