昨日に引き続き、瀬戸明氏の「存在と知覚―バークリ復権と量子力学の実在論」の読みを進めましょう。
この書物、あまり読む必要はなさそうである、と直観は教えているのですが、どうにも著者の言いたいことが良くわかりません。何か気になる本でもあるのですね。
さて、実在論に関しましては、第3章から本格的な議論が展開されます。これを少しみていきましょう。
すでに検討してきたように、《実在とはなにか》という哲学的存在論の根本問題をめぐっては、レーニンはひたすら主客絶対分離の立場から、反対にバークリはひたすら主客相関の立場から、それぞれこれに取り組んでいるといってよい。それではこの場合、レーニン唯物論とバークリ観念論のあいだの哲学的存在論における最大の対立点は、いったいなんであるのか。
一言でいえば、主客絶対分離をとなえる物自体主義が正しいのか、それとも主客相関をとなえる知覚実在物説(バークリ命題)が正しいのか、これが根本の争点である。レーニン唯物論とバークリ観念論という二つの敵対しあう哲学的存在論のうち、どちらが「実在」概念を真の意味で正しく把握して定式化しているのか、これが問題の全核心である。
この議論は相当に不毛な議論である、と思いますし、その思いがこの持って回った議論の筋を追いにくくさせるのですね。
そもそも、実在とはなにか、という定義部分から考えますと、それは「人とは独立にそれ自体で存在するもの」であるはずで、知覚されるから存在するとするバークリ観念論は出だしからして間違っているといえるでしょう。
カントは、外界の事物の存在を認めた上で、これが人に表象を惹き起こし、観念を生み出すことを述べております。もちろん著者も言いますように、カントは外界の事物そのものを「知りえない」といたします。とはいえ、表象を惹き起こす以上、人は外界の事物から何らかの情報を得ていることまでは否定しておりません。
そもそも外界の事物と言いますものは恐ろしく複雑な存在です。たとえば一つのりんごにしたところで、10の20乗を上回る原子がその中にあり、その位置関係や運動の状態を人が把握することは全く不可能である、といえるでしょう。
りんごがもつこの膨大な情報量に比べれば、人が眼前のりんごについて知りえる情報は無に等しい、といっても過言ではありません。しかしそのごくわずかな情報だけでも、人類がこれまでの長い歴史の中でりんごと付き合い、それを生命の糧とするには充分であったのですね。
外界の実在自体を直接人は考察することができません。外界から得られたわずかな情報で構成された概念(観念)で人は外界を理解し、これについて議論を行います。
一方、唯物論の立場は、科学的知識がすべてであると考えます。確かにこの世界は物質により構成されており、その法則を記述するのが科学であるわけですから、すべては科学で解き明かせる、という状態を究極的な目標とすることは悪くはありません。
しかし、現実には、先ほどのりんごの例でも述べたとおり、人が外界の事物を科学で扱おうとしても自ずと限界があります。科学自体が、世界に含まれるわずかな情報量に立脚したものであり、それは近似的、限定的な理論に過ぎないのですね。
もう一つ考えておかなくてはいけないことは、「科学とはなにか」ということでして、それを人間とは独立に存在する、自然界を律する法則である、と考えることに間違いがあります。
科学とは、畢竟、人間精神が生み出したものであり、人による自然の記述、人類の自然理解を表したものに過ぎません。科学は人と独立に存在するものではなく、人の精神のうちに存在するものであり、これを多くの人々が共有することで普遍的な法則とみなされているに過ぎないのですね。
人と独立な外界の実在と、人による自然理解、この二つが別物であることを指摘したのがデカルトの慧眼であったと思います。もちろん、いろいろな意味で、デカルトの哲学は修正が必要でしょう。しかし、二元論そのものは間違いではなく、これを物質と精神の二元論、としてしまったところに袋小路に迷い込む原因があったものと考えております。もちろんその背景には、神の存在が厳としてあったのですが。
二元論を改めて表現いたしますと、人と独立な外界の事物が実在し、これが人に作用して、その精神内部に概念を生み出します。その概念を人々が共有したものが客観であり、科学である、というわけですね。
あれあれ、またしても、瀬戸氏の著作から離れてしまいました。これにつきましては、おいおい読み進むことといたし、本日はこのあたりで筆をおくことといたしましょう。