数日前のこのブログでちょこっと触れました「ぜんぶ手塚治虫!」、朝日文庫の1冊ですが、700頁以上もある分厚い本でして、さて読み終わるのにどれほどの時間がかかるものか、などと思っていたのですが、昨日読了いたしました。そこで、本日はこの内容につき、簡単にご紹介いたします。
同書について
構成は、最初の部分に、手塚治虫氏自身があちこちに書きましたエッセイが収められております。次に、シナリオ、小説、漫画、講演といった手塚作品の抜粋がありまして、その次が対談、いろいろな人の手塚治虫漫画論、最後が作品ダイジェストとなっております。
ここでは、いくつか興味を引かれた部分を引用いたしまして、私の感想を簡単に述べることといたします。
同書について
まずは、講演「失われたロマンを求めて」からまいりましょう。この講演で、手塚治虫は、最近「ロマン」という言葉がぞんざいに使われていることを嘆いたのち、子供のころからロマンを求めていたことに触れ、手塚作品もまたロマンを求めるという要素があることを紹介いたします。
で、「ますます好奇心と夢をふくらませて」という最後の節の一つの段落がなかなか面白いことを語っております。
今、日本という島国の文明を考えてみますと、もちろん、大陸からの文明の流れをはずして考えるわけにはいきませんが、そのほか、焼畑農業を中心にした東南アジア文明とか、メラネシアやポリネシアあたりからはるばる伝わってきた文明、そのほか、ヨーロッパ、南北アメリカなどから運ばれた文明など、いわばこの島は典型的な雑居文明の土地であるわけです。それらの文明が複雑にからみあって、言葉や風俗習慣や、衣食住を独特なものにつくりあげている。そのルーツをあれこれ想像することは大きな夢を感じます。私たちが日常無意識にやっているしぐさひとつとってみても、その源泉が海を越え、はるか遠い国で求められたりする、これこそロマンです。
つまり、手塚治虫にとって、ロマンとは、単なる夢見ごこちという意味を超え、非常な高みに立って人類・自然を見つめなおす、という行為なのですね。日常の常識を、さらに文化的背景から捉えなおす、ということをやっておりまして、そういう思考からジャングル大帝などのお話も生まれた、と彼は語っております。
なるほど、手塚漫画のあのスケールの大きさ、ストーリーの奥深さには、そんな理由があったのだ、と改めて知った次第です。
こどもの色っぽさ
興味深い個所、その2。「11人いる!」、でおなじみの女流漫画家、萩尾望都さんとの対談が面白い。
手塚:あなたの場合、エドガーとか、アランとか描いて、あれ男性的な気持ちになって描いているの? そこらへんをきょうききたいんだけど。竹宮さんにしてもあなたにしても、なんで好んで男性を描くのか。
萩尾:いや、私は子どもが好きだから。
手塚:そうすると、中性的に見てるわけ? 大島弓子さんなんかも、わりと男の子を描くでしょう。中性なのかしら……。
萩尾:そうですね、どちらかというと。理想型というか……。
手塚:ということは、あれにセクシュアルなものは感じないわけ?
萩尾:私の場合はあまり感じてないです。
手塚:つまりそこに愛情なんてものが入ってるでしょう。それは主人公が男だということを意識してるんじゃないの?
萩尾:愛といってもプラトニックだし、子どもだから……。
手塚:子どもだからなんていわないでよ、ぼくなんかいちばん子どもマンガを描いているんだから。男が見ると、あなたのは男性として描いている。子どもなら子どもの色っぽさが感じられるんです。
ここで、手塚氏は萩尾望都がどのような思いをもって男性を描くか、ということを大いに追求するのですが、萩尾望都にあっさりとかわされてしまいます。そしてついには、「子どもの色っぽさ」という、ある意味、すごい言葉を口にするのですね。
私が一連の手塚マンガを読んで得た印象といたしまして、手塚マンガの底流を貫いているのは「少年愛」ではなかろうか、との思いがあるのですね。それも、少年を愛(め)でるとかいったいやらしい意味ではなく(これも少しはあるかもしれませんけど)、少年の中に自分自身の屈曲した少年時代の思いを投影しつつ、客体としての少年を前にして戸惑いを感じ、扱いに逡巡する、といった、なんとももどかしい思いをそこに感じ取るのですね。
それが、手塚マンガ全体から受ける、メランコリックな不透明感、閉塞感といったものではなかろうか、という気がいたします。まあ、このあたりは、読者が百人いれば百通りの解釈が出来るのでしょうが、、、
で、そういう思いからこの対談を見れば、「子どもの色っぽさ」というものにいかに手塚治虫がこだわるか、という感覚も見えてくるし、それを特に女流漫画家である萩尾望都に聞きたい、という手塚治虫の心境もわかるような気がいたします。
ちなみに、「11人いる!」は劇場公開版のアニメにもなっております。この中で最も衝撃的なせりふは、萩尾望都自身が「最も理想型」といたします中性的キャラでありますフロルの「女になってやるよ!」。すごいですね。
このアニメ、現在のところDVDは品切れの様子で、アマゾンでは3万円の高値が付いております。でも、NHKが以前放映しておりましたので、次の放映機会を気長に待てば、ひょっとすると何とかなるかもしれません。(2016.6.12追記:現在ではDVDが出ております。)
「11人いる!」におけるフロルの、中性的存在から性別を確定するという、セクシャリティのふらつきも、手塚マンガの多くに散見されます。心理学的には「去勢コンプレックス」が手塚氏の心理の奥底にある可能性を示唆しております。手塚氏が萩尾望都にこだわる理由も大いにあろう、と思う反面、これを女性であります萩尾望都に訊いてみてもいたし方あるまい、と思う次第です。
汎地球的、宇宙的視野に立って
興味深い個所、その3。石ノ森章太郎氏との対談がなかなか面白い。たとえば次の個所は卓見です。
手塚:マンガ家というのは客観的な視野に立ちにくい。やっぱりどうしても主観が入ってしまう。主観が入るということは、子どもじみているということです。無邪気なんです。シニカルに、じっと外部から見つめて批判するという訓練は大人でないとできないですよね。社会評論家、政治評論家は本来からいうと、体制、あるいは反体制にのめりこんでしまうとだめなんです。それすらも超越して、客観的な立場から批判しなければならないんだけど、それが今の日本ではできない。どちらかに付いてしまう。
石ノ森:確かにそうですね。
手塚:たとえば原発の批判というと、反原発か原発推進か、どっちかしかないんですよね。大局的に超越してみるというのは全然ない。僕はどちらかというと、もっとグローバルな、汎地球的な、宇宙的な視野から見て、第三者的な立場をとりたいんだけど、それを許されない日本の風土みたいなものがあるんです。
この部分で手塚治虫氏が対象としておりますのは、最初はマンガ家が子どもじみている、ということなのですが、「それが今の日本ではできない」というのは、マンガ家のことではなく、あらゆる批評において、という意味に移り変わっております。だからこそ原発に話が移行するわけですね。
そういう意味では、ここで手塚氏が語っている内容は、実はすごいものがあります。つまり、“Show your flag!”、「どっち側なんだ、おまえは!」などというのは子どもの発想である、ということになるのですね。
原発に関するコメントもまさにそのとおりでして、中立的な立場で原子力発電の安全性について研究する、ということができない。リスクを分析すれば、反原発、というレッテルを貼られてしまう、という時代があったわけで、それが今日のエネルギー問題の解決を困難にしていると、私は考えております。
日本人は総じて子ども、というのも困ったものなのですが、今日では、世界の政治家の多くが子ども返りをしてしまったようで、まったく、先が思いやられます。こういう人たちには、もう一度手塚マンガを読むなり、アニメを鑑賞するなりして、勉強し直していただきたいものです。
ちなみにこのブログも、いずれかの立場を大いに宣伝するという考えはまったくなく、自然学(フィジックス)の面でも、形而上学(メタフィジックス)の面でも普遍性を心がけて書いております。
普遍性は、実は、学問を志すものが基礎とすべき立場であるのですが、どうも今日の学問の世界では、学問も職業と化しており、自らの所属する業界団体の利害が学問の内容そのものにも大きな影響を与えているように見受けられます。
そういうちっぽけな利害から離れて真の普遍性(もっとグローバルな、汎地球的な、宇宙的な視野から見て、第三者的な立場)を目指すという生き方は、手塚治虫に言わせますと、これこそがロマンである、というわけでして、これは大いに共感できるものの見方である、と意を強くしてくれる一冊でもありました。