このところしばらく相対性理論について議論してまいりましたので、本日はそのまとめをしておきましょう。
まず第一に、時間は虚数なのか実数なのか、という問題です。時間が虚数的に振舞うということは、いくつかの支援材料があります。
第一に、ローレンツ変換と3次元空間内の回転変換の関係が、時間と空間の一方が虚数であり他方が実数であるとすると同じ形になる、という事実があります。
第二に、4元時空においては、二点間の距離が実数となるか虚数となるかによって、これらの点は空間的に離れているか時間的に離れているかが定まります。
これらの事実から、時間と空間のいずれか一方が虚数的に振舞う、と考えることは無理のないことでしょう。一方で、虚数というものは単なる数学上の定義であって、自然界にこんなものが存在するわけがない、と考えることもうなずける話です。この矛盾はどのように考えるべきか、というのが大きな問題です。
この問題の解は、何が自然界に存在するものであって、何が人の精神の内部に存在するものであるのか、という点を追求することで見出されるように思われます。
まず、自然科学は人の考えたことであり、人間精神による自然界の叙述です。自然法則は誰かが発見したものであり、ニュートンなりアインシュタインなりの頭脳が、自然現象をエレガントな形で叙述するすべを見出しているのですね。すなわち、自然科学の扱う概念は、すべて人間精神内部の存在である、ということができます。
もちろん、これを見出す元には、自然界に対する知見があり、自然現象を説明するものとしてこれらの法則は見出されております。つまり、人間の精神に先んじて、自然界には物体があり、空間があり、これらが何らかの秩序ある動きをしている、ということも認めざるを得ません。
人間とは独立に存在する自然界の事物が人の知覚に作用し、自然界のもっていた情報の一部が人間精神の内部に取り込まれる。人間精神は、これを概念を持って把握し、さまざまな自然法則を見出す、というわけですね。
さて、空間は座標により叙述されるのですが、座標というものは人の精神の内部の存在です。自然界には原点もなければ座標軸もなく、これらは人が適当に定義して初めて意味を持ちます。そもそも、座標系というものを発明したのはデカルトであり、座標という概念は人間精神によって生み出されたものなのですね。
特殊相対性理論の教えるところによれば、この世界は4元時空であり、時間軸がどちらを向いているか、ということすら、これを観測する人次第でしす。互いに移動している座標系の間では、時間軸の向きが異なっております。つまりは、自然界には時間と空間の区別はなく、これを区別するのは人間の精神である、ということになります。
座標系も、座標も自然界にはない、人間精神の内部の存在であることに加え、座標を表す数学的表現も人間の精神内部の存在です。そもそも数は人間の精神が生み出した概念であり、いくつかの惑星が太陽系に存在すること自体は人間とは無縁に決まっているとしても、それを数える、数という概念に対応させるのは、人間なのですね。
従いまして、実数という概念も人の精神内部の存在であり、同様に人間精神が作り出しました虚数という概念と区別して扱う理由もありません。結局のところ、空間座標を表す数が実数的に振舞うのであれば、時間座標を表す数が虚数的に振舞うと考えたところで何らおかしなことはない、ということになります。
また、虚数という概念を使わない場合も、4元時空を扱う際に、時間軸と空間軸に対して異なる扱いをしていることに違いはなく、時間の単位の数を二乗したときに符号を変える、という処理をしている事実には変わりはないのですね。ということであれば、時間は虚数的に振舞う、と考えて物理法則を書き下すことに何の躊躇もいらないように思います。
ちなみに、ホーキングの言う「虚数時間」は、現在の時間が実数であるとした上で、宇宙の始まりには時間が虚数であったとする説で、現在の時間が虚数的に振舞うという考え方を受け入れるなら、ホーキングの説によりますと、宇宙の始めのある時点において時間は、空間と同様、実数的に振舞っていた、と言う主張になります。つまり、ホーキングの言う虚数時間は、今回の議論であります「時間と空間の振る舞いが虚実の関係にある」ということとは、直接の関係はありません。
まあ、時間が虚数的に振舞う、という仮定を置くと、物理学は相当に単純化されると考えているのですが、残念ながら一般相対性理論におきましてはそうでもない様子。これは昨日の議論(大いなるミスリーディング)で証明されてしまいました。
一般相対性理論では、テンソルにより自然現象を記述するのですが、テンソルの演算において上付き添え字と下付添え字を区別して扱わなければならない、というのがリーマン幾何学の要請である様子で、こうした場合、座標を表す数字を、上付き添字のテンソルと下付添字のテンソルで時空の符号を入れ替えるという処理を行うことで、時間が虚数的に振舞うということと同等の効果を発揮させることができます。
では何ゆえに時空の符号を入れ替えなければならないか、となりますと、ファインマン流の言い方ではローレンツ変換に対する不変性を保つため、なのですが、これはすなわち、時間が虚数的に振舞う、ということと同値ですし、後者の言い方のほうが、見通しのよい議論ができるように、私には思われるのですね。
ともあれ、いずれにいたしましても、自然科学は人間精神による自然界の記述であり、それをどのように記述したところで人の勝手。実数も虚数も、言葉と同様、自然界を記述するために人間精神が生み出した概念に過ぎません。時間を虚数で表すことも自由なら、実数で表してローレンツ変換を満足するように演算規則を定めることも、また自由である、ということでしょう。
要は、どちらがエレガントでわかりやすいか、ということがポイントなのですが、さて、、、
虚数時間の物理学、まとめはこちらです。