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小熊英二「単一民族神話の起源」を読む

最近歴史づいているこのブログですが、本日は、小熊英二著「単一民族神話の起源」を読むことといたしましょう。

同書の立場

この書物は、以前のブログでも軽く触れたのですが、実を言いますと、このテーマは一言で語れるようなものではありません。文字数制限のありますこのブログ(これは楽天ブログ当時のお話。現在は無制限です)でどの程度正確に趣旨が伝わるかどうか、多少の不安もなしとはいたしませんが、とにかくご紹介することといたしましょう。

前回もご紹介いたしましたが、同書に関しては慶応SFCのページが比較的よくまとまっております。このブログでの紹介が私の見方に偏りがちになるであろうことを考えますと、他も参照してバランスをとっていただくのが良いかとも思う次第です。

単一民族神話といいますのは、「日本は単一民族国家である」というもので、であるが故に日本の社会は相互のコミュニケーションがとりやすく、社会的にまとまっており、国際的な競争力も持ちえるのだ、だから日本はすばらしい、といった文脈で語られることが多いと思います。

このような考え方は、今日では右寄りとされる人々が持ちやすく、このような意見が語られますと左よりの人々から、アイヌや在日朝鮮人がいるではないか、といった議論が巻き起こるわけです。

しかし、単一民族説と混合民族説の歴史はそう簡単なものではない、と明治以来の膨大な議論を引用しつつ、同書は説きます。

民族の定義

以下、その一部をご紹介しようと思うのですが、その前に、私の疑問といいますか、同書にも、同書で紹介されております民族論にも、肝心な部分の議論が欠けているのではないかと思いまして、この点につきまして考えておくことといたしましょう。

それは「民族」とは何か、「民族」をどのように定義するかという問題です。

Wikipediaをみましても、この定義はさまざまでして、大きく分けますと「文化的なまとまりを持った集団」とする考え方と、「同じ血統に属する集団」とする考え方の二通りがあり、小熊氏の著書で引用されております議論も、この二つの考え方がごっちゃになって展開されているように思われます。

第二の問題は、単一であるとか複合であるとかを判断するためには、同じなのか違うのか、という判断ができないといけないのですが、文化にせよ血統にせよその異同は程度の問題であり、単一か複合かの判断はきわめて難しいという問題があります。

単一民族説では、同じ日本語を話す点が日本民族が単一民族であることの一つの利点としてあげられるのですが、九州や東北のローカルな言葉は関東地方の人間には理解が困難であり、彼らが標準語を話すから関東の人間にも九州人の話す内容が理解できている、という事情があります。

これは、放送での標準語の使用や国語教育の賜物であって、語学教育次第で民族的帰属が変わってしまうのはおかしな話です。このような基準では、帰国子女や日系二世、三世の扱いをどうすればよいのか、困るところです。

また、日本の文化は大陸の影響を強く受けており、文字にせよ、学問にせよ、法制度にせよ、宗教にせよ、古くは中国から輸入されたものであり、明治維新以降はヨーロッパの、太平洋戦争以降は米国の文化的影響を強く受けております。

血統に関しても、同様な問題があり、古墳時代の頃までは国境も定まらず、日本という領域の内外での人の動きはさまざまな形であったものと考えられております。そういう意味で、元をたどれば日本民族は混血である、ということはできるでしょう。

しかし、混血も、混ざりきってしまえば一つである、ということもできます。紅茶にミルクを注いだとき、そっとしておけば、カップの中には紅茶だけの部分と、ミルクの混ざった部分の二種類の領域が存在します。しかしこれを良く混ぜれば、カップの中はどこをとっても単一のミルクティーとなります。これをミルクティーという単一の存在であるというべきなのか、ミルクと紅茶の混合物であるというべきなのかも、悩ましいところです。

ここは、集団内で均一であれば混血も純血というべきでしょう。あらゆるヒトは、同じ種に属する以上、祖先を共有しております。ここから血統による民族的差異が生じますのは、さまざまな形で環境に適応したヒトの集団がその内部で婚姻を繰り返した結果、さまざまなヒトの品種(=血統という意味での民族)を生じたからに他なりません。

血統の混合と民族的統一性

わが国では、300年の長きにわたって継続いたしました江戸時代において、鎖国政策がとられました。また、それ以前の時代も、少なくとも平安時代以降は日本という領域内外での人の移動は制約されておりました。このような時代は1,000年以上継続したものと考えられます。

人の世代交替周期は歴史的には20年以下ですから、1,000年では50以上の世代交替がありました。人は二人の親を持ちますので、50代ということはそれぞれの人が250 の祖先を持ちます。およその数字で、210 は千、220 は百万、230 は十億でして、250 は十億の百万倍、すなわち千兆ということになります。

もちろん、千兆は人類の人口をはるかに超えておりまして、実際には重複があります。すなわち、同じ人物が、ある人の祖先の二つ以上の系統に現れていることは明白でしょう。しかし、これだけの世代が繰り返されれば、人の交流のある範囲内で、ほぼ均一な血統が出来上がる、ということはいえるのでしょう。

となりますと、日本人の血統は一部の例外(近年に渡来した外国人など)を除いて単一である、といえそうですが、人の移動には国内でも制約があったということも考えておかなくてはいけません。特に、江戸時代の社会を考えますと、固定的な身分制度のために、公家、武家、一般庶民の間での婚姻はあまり一般的ではなかったはずですし、異なる藩への農民の移動も制限されていたものと思われます。

多様な民族の集団とみなされた明治初期の日本

同書23頁に、次のような記述があります。

当時の「日本人」は、混合説を唱える欧米人の目には、きわめて多様な容貌をもった人びとと映っていたらしい。これは珍しい感想ではなかったようで、当時の欧米人の旅行記を集大成するかたちで書かれたジュール・ヴェルヌの『八十日間世界一周』でも、中国人が一様に黄色い顔色なのに対し、「日本人」は顔色も容貌も多様であるとされていた。時代が下がった1943年のブルノー・タウトの日記にも、「日本人」がきわめて多様な容貌の集合体であると書かれている。

明治初期の日本人を見た欧米の人々にとって、これほどまでに、日本人がさまざまな民族の集合体であるようにみえたことには理由があるのでしょう。

同じページには、薩摩型と長州型の特徴が図解されております。藩内での混血が進み、異なる藩の間での婚姻が少なかったとすれば、藩毎に異なる血統が生じるというようなことがあっても不思議はありません。

藩という政治単位が確固としておりました江戸時代は300年間続きまして、この間の世代のサイクルは15~20程度と推定されます。これは3万から百万程度の先祖を持ちえる時間の幅がありまして、藩の人口は大きな藩でも百万人前後ですから、藩内の混血はかなりの程度進んだ、とみることもできるでしょう。

そうなりますと、血統を中心に民族を定義する場合には、明治初期の日本には、薩摩民族会津民族などなどが割拠していた、ということもできそうです。もちろん、それ以外に、公家民族や上級武士民族なども、存在したのかもしれません。

明治以降、日本国内の人の移動は自由となり、全国規模での混血が進んでおります。しかし、百年程度という期間は一億人の血統を均一に混ぜるには少々短すぎることも事実でして、現在はいろいろなタイプの人間がこの国に存在するという、ある意味面白い時代となっているように思われます。

ちなみに、人々の移動は、時代が進むに従ってより広範囲となるはずで、いずれは全地球的規模で混血が進むものと思われます。そういたしますと、千年か2千年の後には、人類のすべてに私の血が混ざることになる可能性だってなくはないのですね。危ないのはこの先の2~3代。それさえうまく乗り越えれば、この野望はもはや実現したも同然、といえるでしょう。

ま、全人類に私の血が混ざるといいましても、その割合は微々たるものでして、他の人々の血も同じように混ざり合うこととなります。つまり、ほとんどの方に同じチャンスがある、ということです。ともあれ、いずれ地球に満ち溢れます我らが子孫たちには、幸せに暮らしてもらいたいものです。

民族という概念の将来と現在

閑話休題。民族を文化という視点で捉える場合も事情は混沌としております。

最近、わが国の経済ルールはグローバルスタンダードを受け入れておりますが、学問の分野では最初から全人類が共通です。生活のパターンも似たりよったりとなっており、東京にマクドナルドがあればカリフォルニアにはすし屋があります。言語の壁は確かにあるのですが、いずれ自動翻訳技術が一般的になれば、一気に意味を失うはずです。

文化的な融合は情報と物資の流通により容易に進む性質をもち、文化的統合体という意味での民族は、時代の進行とともに急速に混ざりあうはずです。ただし、宗教や倫理にかかわる微妙な部分は、遺伝子同様、親から子に伝達されるという性質もあり、こちらの融合のスピードは血族という意味での民族の統合と同程度のスピードとなりそうです。

結局のところ、民族という概念は遠からずして消滅するものと予想されるのですが、それがさほど近い将来であるとも思われず、少なくとも何百年かの年月が必要となりそうです。そうなりますと、今日、民族について考えることは決して無駄なことでもなく、このような本を読む意義も十分にあるといえるでしょう。

さて、民族の定義がはっきりしないのは少々問題ですが、同書の内容をみていくことといたしましょう。同書は、三部構成の17章と結論からなります全450ページの分厚い書物でして、すべてをご紹介することはとても無理です。そこで、いくつかのポイントに絞ってご説明いたしましょう。

劣等感がもたらした単一民族説

第1部「『開国』の思想」は、明治の初期から日韓併合までを扱います。

明治の初め、わが国を訪れました欧米の学者が、初めて日本民族に関する考察を行っておりますが、これらはすべて日本人を混合民族であるとするもので、アイヌ、熊襲などの先住民族を他民族が征服する歴史が、記紀にみえております「神武東征」の物語であると考えられました。

その後設立されました帝大で人類学を学びました本邦の学者もまた、日本民族とは何かを議論いたします。当初は混合民族説が優勢であったのですが、次第に、元から日本には日本民族しかいなかった、とする単一民族説も唱えられるようになります。

ここで単一民族説が登場する背景には、日本民族が劣っているとの認識がありました。海外に劣るわが国が頼りにできるのは「天皇の元に集結する国民(=民族)の団結力があるだけだった」というのですね。

外国人の居住を居留地のみに制限するべきか否かをめぐって「内地雑居論争」が起こります。わが国を弱小国家とみなす人びとは雑居に反対するのですが、相互の対立を解消するためには居留地は有害であるとの説も唱えられます。

混合民族説の高まり

さて、明治の日本は軍備を増強し、ついには日清戦争で中国に勝利いたします。その後三国干渉を受けますと、日本人のナショナリズムは高まり、さまざまな民族論が噴出いたします。

そして、天皇の支配は権力による抑圧ではなく情愛によるものであるとの建前の元で朝鮮半島および台湾に影響力を強めるに至りますと、朝鮮・台湾に住む人々と日本との関係が問われます。これに対する解が日鮮同祖論なる混合民族説でした。

この考え方は私には少々乱暴な考えであるように思われます。半島側からみれば、一部の人間が他国に出て行ったのは自らの民族とは関係ない話です。わが国の血統に渡来人が含まれるからといって、朝鮮の血統がどうこうなるわけではないのですね。

国体思想の確立

第2部「『帝国』の思想」では、第二次大戦前から戦争中に至る、「国体」をめぐる議論が扱われます。

ここでは、わが国は元をたどれば多民族からなる国家であるにもかかわらず、天皇の元にイエ的な結合を作りえるのはなぜか、という難問に解答が与えられます。

第一に、亘理(わたり)章三郎による、制度としてのイエという考え方で、次のようになります。

異民族は養子や嫁と同じく、血統上の祖先とはべつに、入ったイエの祖先の系列に同化しなおされるという。日本のイエは、血統ではなく制度なのだ、という認識が確立している。詭弁とはいえそのレベルは、混合民族論の前でうろたえていた明治の国体論者とは、雲泥の差があった。

そして、次のように国体論の再編成が完了したといたします。

広島文理科大教授の清原貞雄は……日本民族の混合起源や渡来人血統の天皇家混入などをあげつつ、「わが帝国の人民は純粋の単一民族では無いといふこと」を述べている。そこには、家族国家とは概念的なもので、実際の血族関係でなくても同化が完成していればよいという説明がつけられていた。……

こうして、国体論の再編成は完了した。混合民族論をみずからの内側に取り込むことに成功した国体論は、帝国内異民族の位置づけに悩まされることなく、無限の進出が可能となった。……亘理らの国体講演会が開かれた翌月、治安維持法による日本共産党の一斉検挙が行われ、大日本帝国は15年戦争にむけた準備の一端をととのえる。あとは、完全に帝国の論理の中に組みこまれた混合民族論が、侵略に貢献するときを待つばかりであった。

この論理はなかなか強力でして、わが国の大陸侵攻を、発展の遅れた同胞に対する欧米支配からの防衛として正当化するとともに、混血民族としての日本民族の優秀性を唱えて国民を鼓舞いたしました。

戦時中に興った単一民族説

第3部「『島国』の思想」では、戦時中に起こりました単一民族説とその戦後における発展が扱われます。

まず、混合民族説は、政府の一部にも異論がありました。日本の盟友ナチスドイツは純血主義をとり、「ドイツかぶれ」と揶揄される一部の人々は、日本人と朝鮮人の混血を防止すべきと主張します。厚生省もこの立場をとり、混合民族論をベースとするわが国の基本政策とは相容れない考え方が政府部内にも生じておりました。

在野においては単一民族説が、柳田国男白鳥庫吉津田左右吉らによって発展いたしました。これは、当時の国体論と相反し、特に、単一民族説が記紀の記述と矛盾することから、記紀をフィクション(詩)であるとした津田は裁判にかけられることとなります。

日本を代表する哲学者のひとりであります和辻哲郎もまた、単一民族説を唱えました。ここで同書から、なかなかに含蓄のある一節を引用いたしましょう。

和辻の日本回帰は第一次大戦前後からおこったといわれており、1919年の『古寺巡礼』もその一環である。本居への評価が逆転した1917年から1920年の間に何があったのかはわからない。近代科学で人間が殺しあった第一次大戦の衝撃によって、ヨーロッパ思想界に西欧文明と近代理性のゆきづまりを唱える風潮が高まったことも一因だったろう。だがもう一つ考えられるのは、1919年前後に集中しておこった、日系移民排斥問題と人種平等提案の否決である。和辻は、アナトール・フランスが黄禍論の台頭を批判した『白き石の上にて』を、柳田から薦められている。そしてその影響を受け、有色人種を植民地支配してゆく白人に「対抗し得るものは世界中にただ日本のみである。日本は人種平等の主張を以て人類の過半を救わねばならぬ」と書いていたのだった。

だが、和辻が本居に影響を受けたことは、必ずしも彼が当時の国家主義に転向したということを意味しない。自然人という和辻の日本古代人観には、彼が傾倒していたニーチェの「善悪の彼岸」概念も重ねあわされている。……

本居と儒学者の対立を「『善悪の彼岸』と『普遍妥当の道徳』との対立」と表現した和辻は、中国文明の影響をのぞいた日本を求めた津田や、西洋近代の普遍主義の前に日本の独自性が危機にさらされていると考えた柳田と、同じ地点に立ったと推測される。形式道徳や普遍主義に対し、共同体の土着文化や自然な生を賞賛することは、柳田や津田にもみられたことであった。ただ、柳田は普遍主義の象徴を欧米(大陸)に、津田は形式道徳の象徴を中国に投影した。和辻の場合は、欧米と中国の双方にそれをみいだしたのである

なんか嬉しくなってしまうような文章ですね。で、私ごときものが和辻氏の考え方に批判的な文章を書くのは畏れ多いことですが、ここは私の考えを述べておきましょう。

倒錯した普遍道徳と善悪の彼岸

まず、中国や欧米が『普遍妥当の道徳』に基づかざるを得ないのは、社会が大規模になっているからでして、実は日本の事情も変わりません。ヤマト王権が成立した直後から、中国の制度をお手本として、律令制や格式の整備が進められました。

わが国が国際連盟に提出した人種平等提案も、普遍妥当の道徳として提案したはずです。当時の世界は西欧という狭い範囲で意識されていたのかもしれませんが、普遍妥当性をより広い範囲でとらえる見方もありました。わが国が国際社会に物申す際には、普遍妥当性を指向せずして世界の合意は得られません。

社会のすべてをソクラテス的な普遍妥当性で割り切ることは、社会の活力を欠き、そこに生きる人々に閉塞感を与えることとなるでしょう。しかし、社会の運営をディオニュソス的に行うということは大きな社会には困難です。

これを無理にやった結果の悲劇が太平洋戦争であると私は考えておりまして、もう少し冷静に国家運営ができなかったものかと悔やまれるのですね。

今日の政治の世界も、空気が支配するディオニュソス的運営がなされているとの印象を受けます。本来普遍妥当性が必要であるべき行政の世界が『善悪の彼岸』にいってしまい、ディオニュソス的要素を残すべき教育の場や組織の小さな単位が管理強化の進んだソクラテス的世界になってしまっているのが今日の日本の現状であるように、私には思われます。

これは危ない状況ですし、社会の活力を削ぎ、閉塞状況を生み出してしまいます。いずれこういう構造は、ひっくり返す必要があります。

閑話休題。和辻は日本民族が混血によって成立したことは認めます。しかし、民族の性質を決めるのは「風土」である、というのですね。従いまして必然的に、同じ日本の風土に生きる人々は単一民族ということになります。

これはこれで、感覚的には悪くありません。さまざまな批判は存在するのですが、「普遍妥当性」に最初から背を向けている以上、あらゆる批判は意味を失います。しかし、これでは学説でもなければ哲学でもありません。津田左右吉が記紀を評しましたと同様に、和辻哲学は詩である、とみなすべきなのかもしれません。

敗戦後の展開

敗戦となりますと、一転、単一民族説がわが国の論壇の支配的な考え方となります。戦時中に弾圧を受けました津田左右吉は一転もてはやされるのですが、当時の進歩的文化人が左よりであるのに対し、津田の思想は天皇制を重視し、マルクス主義にも批判的です。また、和辻哲郎も単一民族説と天皇制擁護の主張をいたします。

敗戦後の日本が弱小国家に転落した時代は、単一民族説という一国平和主義が輝いてみえたのですが、高度成長を遂げますと、再び保守系の論客から混合民族説が唱えられるようになります。

著者は、最後に、「異なるものと共存するのに、神話は必要ない。必要なものは、少しばかりの強さと、英知である」と述べて同書を終わります。

民族という概念のあいまいさ

さて、私の感想ですが、かなりの部分はすでに書いてしまいましたので、この問題に関する枠組みを提示したいと思います。

まず、「民族」という言葉は不明瞭な概念であり、注意して扱うべきであろう、と私は考えます。少なくともそれが文化的な概念であるのか、血統という概念であるのかは明確にしなくてはなりません。また、どの程度の均一性があれば同一といえるのかという判断基準も示す必要があるでしょう。

「民族」という言葉が声高に語られるため、多くの人は、それが自明な概念であると思いがちですが、この言葉は使用する人によって、さまざまな意味を持っております。これをあいまいにしたまま議論が進んでいるのが現状であるように思われます。

今日の文脈では、「民族」は文化を同じうする集団という意味に近い扱いがなされております。もちろん、婚姻は文化を同じうする集団の内部で行われる可能性が高いこと、文化を構成する要素の一部は親子の間で継承されることから、文化を同じうする集団と同じ血族集団とは共通する要素も多いでしょう。

混合民族説は、わが国は異なる民族が同化していると述べ、単一民族説は、日本民族が混血によって成立したことは認めるものの、日本固有の文化をもつ単一民族である、と述べます。これは、ミルクティーがミルクと紅茶の混合物であるとみなす立場と、ミルクと紅茶が混合されてミルクティーという均一物が生じたと考える立場の相違に過ぎません。

実のところ、民族に関する議論で、日本が単一民族国家であるのか混合民族国家であるのかという点は、単なる定義なり判断基準なりの問題であり、これをどう呼ぼうと現実の世界に変化が生じるわけではありません。

目指すべき道

この件に関係して真に議論されるべきは、わが国が単一民族国家を目指すのか、多民族が共生できる国家を目指すのかという点でしょう。

しかし、すでにわが国が、アイヌ、在日朝鮮人といった、単一民族の枠外とされる国民を抱える以上、前者という選択はありません。単一民族国家を目指すということは、民族差別を公に認めることですからね。

そこで、多民族が共生できる国家を目指すということとなりますと、異文化コミュニケーションの能力を国民の一人一人が身に付けるのがまず第一歩となります。義務教育で教えるべきは、まず異文化コミュニケーション能力であるといえます。

これを怠り、単一民族説に基づく教育を行えば、国内のマイノリティーに対する扱いに苦慮するだけでなく、国際社会での活動に不向きな人間ばかりを養成することになってしまいます。

異文化コミュニケーションの基礎は普遍妥当性であって、津田左右吉や和辻哲郎が嫌う中国や欧米といった大規模・多民族社会を律する価値観です。しかしこの価値観は同時に国際社会も律しており、さらに国内における組織運営を公正に行うためにも要求されます。

また、普遍妥当性と人のディオニュソス的側面との調和という点も、異文化コミュニケーションに際しては、特に重視されてしかるべきでしょう。これは、公と私の峻別が前提となるのですが、今日わが国の指導的立場にある人達の中にも、この能力の欠如が間々みられます。

甘えるばかりで大人になれない日本人などという評価が出てまいります一つの原因は、普遍妥当性の価値を教えず、単一民族説に依拠した教育を行い、内向きの人ばかりを養成した結果であり、今日の日本の教育は、いちど根本思想に立ち返って見直す必要があるように、私には思われます。

民族に関して議論を行う際は、このあたりまでを配慮しての議論をお願いしたいものです。


2017.1.15:「アポロン」を「ソクラテス」に訂正しました。