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姜(カン)と森巣著「ナショナリズムの克服」を読む

本日は 姜尚中(カン・サンジュン)、森巣博著「ナショナリズムの克服」を読むことといたしましょう。

森巣博氏はWikipediaによりますと、自称「常打ち賭人」の作家でして、国際的視野に立つ、リベラルに近い思想家です。

ばくち打ちなどといいますと世間の人は一歩引いてしまうのですが、相場などに手を出している者としては似たような立場。森巣氏のまなざしが勝負の場における人間に向かうのはよい着想だと思いますし、パスカルがダイスの出目で確率論を研究するのも似たような話ではあります。

実は私も、株式市場でのフィールドワークにより「不確定性が支配する人間社会におけるコミュニケーションの研究」をしようか、などと考えたこともあるのですね。まあ、この野望はまだ捨てたわけでもなく、フィールドワーク続行中、、、というか泥沼に足を取られた状態が続いております。

姜尚中氏は政治学者で、自らが在日韓国人であることから、特に東アジアの国際関係やナショナリズムの問題を、リベラル的な立場で扱っております。

このブログでは、これまでにリベラル的な立場で書かれた書物に批判的立場であったことが多いのですが、これは、リベラルとは名ばかりの国家公務員の既得権益を護ろうという、私利私欲をベースとしたリベラルに対してであり、真の意味でのリベラルであれば、私の立場とさほど変わりません。

これまでのこのブログでは、民族主義に関する書物をいろいろと読んでまいりまして、小熊英二氏の「単一民族神話の起源をご紹介したり、青木保氏の「『日本文化論』の変容をご紹介したりしてまいりました。

その中で一つ特徴的なことは、排外的な民族主義が高まるのは日本人が自信を喪失した時期である、ということなのですね。つまりは、日常社会が閉塞感を高めたとき、やり場のない怒りが少数民族や外国人を批判する方向に向かい易い、という背景があります。

米国において人種差別が激しかった時期には、「プア・ホワイト」と呼ばれる白人貧困層に差別意識の高まりが認められました。中国における近年の反日感情の高まりも、中国人が現在おかれている閉塞的状況とは無関係ではありますまい。わが国において愛国心が強調されるのも、バブルの崩壊以降の、日本人が自信を喪失していく過程と歩調をあわせております。

結局のところ、排外思想というものは、社会において多数を占める中間層以下に受け入れられ易い思想であり、政治家が人気を取り、現実の問題に対して人々の目をふさぐ効果があるという大変に便利な思想ではあります。しかし、排外思想を高めたところで、たいていはなんの問題解決にもならず、かえって事情は悪化してしまう場合が多いのですね。

だから、自らが雄々しくありたいと願うなら、また、より良い未来を求めるならば、排外主義の誘惑は断ち切らなくてはいけません。ニーチェ流にいうなら、排外主義は畜群道徳の一つです。負け犬の遠吠えだって、知らないで聞いておれば、勇ましい吼え声に聞こえるのですね。

そういう思いを常々抱いている私が同書を読みますと、少々あくの強い部分が目に付くことは事実ではあるのですが、なかなかよいことを言っているではないか、と思われる箇所が多々あります。前振りが長くなってしまいましたが、以下、同書のそういう点につき、いくつかご紹介することといたしましょう。

まず、同書96ページでは、徴兵を忌避した三島由紀夫の過去が語られます。こういう話はあまり好ましいものであるとも思えませんが、市ヶ谷駐屯地における三島の自決事件という現代史について考える上では避けて通れない事実であるのかもしれません。いずれにいたしましても、これが事実であるといたしますと、三島の極端な民族主義の背景には原罪意識なりコンプレックスなりがあったという説明ができるのですね。

つぎは、29ページの以下の部分です。

森巣:……暇に飽かせて読みまくった膨大な日本論・日本人論のどれに対しても、違和感をおぼえるばかりでした。第一、どの著作も、論の骨格であるはずの肝心な「日本」および「日本人」の定義を、非常にあいまいな形で処理しているんです。
姜:共通しているのは、「日本(日本人)は、どこか特別なんだ」という漠然とした自意識です。
森巣:「日本人」が、必ずしも日本国籍を有するいわゆる「日本国民」でないことが大変やっかいです。例えば、日本に帰化したヨーロッパ系の人々は、いつまでたっても「ガイジン」と呼ばれます。では「日本人」を「日本人」たらしめているものは何か。そこで持ち出されるのは、「純血」や「ヤマト心」、あるいは「万世一系の天皇制」など、どれもまったくつい最近の想像物、捏造物の根拠ばかりですよね。

この疑問は、単一民族説の系譜をご紹介したときに私が感じたものと同じでして、学術的議論をする際には、まず用語の定義をきちんとしなければならない、という前提条件が満足されておらず、日本人論のほとんどは、気分的・感覚的・感情的な議論の域にとどまっております。

オリンピックで日本の選手団を応援するなら、関西人がタイガースの応援をするようなもので、人それぞれが好きなことをしているだけの話ですから、気分的であったところで全然問題はありません。しかし、単なる感情論は教育の場に持ち出すべきテーマではなく、政治の場でこのような議論をすることはポピュリズムのそしりを免れません。

184ページには森巣氏のちょっとした誤解があります。彼は次のように述べます。

森巣:1979年にサッチャーが勝ったときの選挙スローガンの一つは“Britain is being swamped by Asians”ですよ。「アジア人によって、イギリスの日常生活が壊されている」ですから。それで、キャラハンの労働党政権が大差で負けちゃうわけ。私にどうしても理解できないのは、例えば中曽根康弘とか石原伸太郎といった「極右」政治家たちが、サッチャーを賞賛していることなんです。自分たちは「アジア人」だと思っていないのかな。自分たちがそうは思っていなくても、サッチャーの眼から見れば紛う方なき「アジア人」なのに。

実は、日本民族論の特徴として、日本人はアジア人とは別物である、という考え方があるのですね。だから、中曽根、石原といった人たちがサッチャーと同じ目線で日本以外のアジア人を差別するのは、なんら不思議はありません。

ただ、普通のイギリス人から見れば日本人はアジア人にしかみえないわけで、日本民族はアジアとは異なるなどという日本民族論を理解しているイギリス人は、極々少数に過ぎないということもまた事実です。こちらの考えていることと相手の考えていることは見事にずれているのですね。

さて、「ナショナリズムの克服」というのが同書の題名なのですが、これはそれほど大変なものでもありません。これが示されるのが同書169ページの以下の部分です。

姜:僕にとって、たぶん、熊本が故郷なんだろうけど、行くたびに懐かしいと同時に違和感もある。だから、ある意味では、僕の一番の理想は博さんだったかもしれない。要するに、博さんは、僕の理想も先取りしてた。自分の好きなように生きて、故郷や、日本人であるということにこだわらない。
森巣:私は、さっき言ったように、生まれたのは金沢だけど、いろんなとこグルグル回って、14歳から一人で住んでて、というようなことをやってました。すると、故郷っていう感覚は、そもそもないんですよ。強いて言えば、あそこにいい思い出がある、あそこにはいい女がいた、ぐらいなものです。で、突きつめて言えば、結局、どこでも住みやすいとこがいいんだと。
姜:なるほど。
森巣:例えば、その住みやすいという条件に、言語であるとか、価値の共同体であるとか、そういうものを含める人もいるでしょう。言語がうまくないと、なかなか心地よい生活はできないんですものね。

結局のところ、人は住みやすいところに愛着を持つわけであって、故郷や自国を愛するその一番の基礎にあるのは、それが住みやすいからだというわけなのですね。なにぶん、そこで生まれ育っておれば、言葉も通じやすいし、風俗習慣にも慣れ親しんでおり、なにより土地勘がありますから。

そうなりますと、日本人に愛国心を持たせる決め手は、日本が住みやすい国であること、これが第一であるということになります。生徒に愛校心を持たせたければ生徒にとって快適な学校にすればよいし、社員に愛社精神を持たせるためには、その会社の社員であることが社員にとってベストであると思わせなくちゃいけません。

そうではないのに無理強いしようとするなら、特高なり秘密警察なり思想犯収容所を作り、胡乱な言説を語るものを片っ端からしょっ引かなくてはいけません。もちろんこれはこれでルサンチマンを満足させる効果もありまして、ポピュリズムには合致しております。つまりは、エリートとされた人に対する大衆のねたみ心を利用するというやり方で、わかりやすくいえば、中国の文化大革命と同じことを、主義思想を入れ変えて行えばよいということになります。もちろんこんなことをやりますと、最後には国力の低下を招くだけの話なのですが、、、

閑話休題。話を戻しましょう。178ページではさらに、対話は社会思想の深みに一歩踏み込みます。

森巣:民族概念とは、「西欧近代」の発明物です。「民族」は、文明、文化、国民、国家、人種などと同様に、早くても18世紀の後半に、社会分析の道具として立ち上げられたものなんですね。
姜:いずれも、フランス革命やナポレオン以降の、国民国家創出に、深く関与した言葉ですね。
森巣:……1960年代の構造主義者、ポスト構造主義者たち、すなわち、レヴィ・ストロース、ルイ・アルチュセール、ジャック・ラカン、ミシェル・フーコーや、ロラン・バルト、ジル・ドゥルーズ、ジャック・デリダ、そして以上の人たちを批判しながら発展的に継承した構築主義者と呼ばれる人たちの研究によって、民族を始めとして、「西欧近代」に立ち上げられた、文明、文化、国民、国家、人種などの言葉群の持つ犯罪性が、次々に暴かれていきました。
姜:いずれも、「われわれ us」と「かれら them」を差異化する言葉ですね。そして、それらの言葉を使用するうちに、いつの間にか、「われわれ us」=「西洋人」が、「かれら them」=「西洋以外の野蛮人」を、抑圧・収奪するのに都合のいい理屈が、無意識的、自動的につくりあげられていくんです。
森巣:実は、「民族」という概念は、60年代の構造主義以降、すでに徹底的に解体され、また徹底的に批判され尽くした過去の残滓なんですが、それがどういうわけか、日本の人文社会の領域にはなかなか伝わってこなかった。いまだに、これに固執している学者たちが、日本には多いんですね。

結局のところ、哲学思想の最先端では、「民族」などといっている人たちは遅れた人たちである、ということなのですね。ふうむ、、、まあ、いろいろと異論もあるかとは思いますが、楽天ブログの文字制限となりました。議論は、稿と日をを改めて行うことといたしましょう。