以前のこのブログで、「マックス・ヴェーバー入門」を読みましたが、同書はヴェーバーはニーチェのいう「ディオニュソス的なるもの」を求めている、としております。
ニーチェにつきましては、このブログで以前「ニーチェ入門」を読んだりしているのですが、このときには「ディオニュソス的なるもの」が今ひとつはっきりしておりません。
はっきりしないのは気になるものでして、この思いを解消せんと、今回はそのものずばり、ニーチェの「悲劇の誕生」を読むことといたしました。
悲劇の誕生
この本の御紹介は、これまで行いました他の書物の御紹介のようにはいきません。同書を高く評価する文化人の一人が岡本太郎氏であることからも推察されますように、同書はバクハツしてしまっております。また、訳者秋山氏によります解説によれば、同書に書かれたニーチェのギリシャ文学史につきましては相当に間違いが多いということで、普通の本を読むような調子でこれを読むわけにはいきません。
では、「悲劇の誕生」はどうしようもない書物であるのかといいますとそうではないわけでして、その内容を読みますと、この本がそのように書かれた理由も読めてまいります。つまり、ニーチェは彼が理想としたディオニュソスに従ってこの書物を書いた、アポロンでもなくソクラテスでもない、ディオニュソス的な書物を作り上げたということなのでしょう。
まあ、最初からこんなことを書いても御理解いただくのは難しそうです。ディオニュソス的であるとは、アポロ的とは、そしてソクラテス的であるというのはどういうことなのか、これを以下で御紹介してまいりたいと思います。これを御理解いただけますと、この本がむちゃくちゃな書物であるにもかかわらず、高い評価を受けるその理由も見えてくるのではないかと思います。
まず、最初に注意しておきますと、「悲劇の誕生」は、その題名からも明らかなように、芸術論であって人間の生きるべき道を示したものではない、ということを忘れてはいけません。良質の悲劇とはいかなるものであるのかを納得したからといって、人間がそのように生きなければならないというものでもありません。
しかし一方で、ディオニュソス的なるものを現実の世界にも求めるのが、前回御紹介いたしましたマックス・ヴェーバであるというのですね(マックス・ヴェーバー入門の主張が正しければ、という条件付ですが)。
私もこれには同感でして、人生には美学がなくちゃいけないと考えておりまして、ただただ波風立てずに送るような人生などはクソクラエです。「経営の本質はリスクをテイクすること」との言葉は人生にも当てはまると確信しているのですね。
もちろん、リスクをテイクするというのは「無謀」とは異なりまして、その裏には戦略なり、さまざまな計算なりがなくちゃいけないのですが。まあ、そういう意味では、これが真にディオニュソス的であるのかどうかは、少々疑問かもしれません。
ディオニュソス的・アポロ的・ソクラテス的
閑話休題、本論とまいりましょう。まず、問題の「ディオニュソス的」、「アポロ的」、「ソクラテス的」という概念を御説明しておきましょう。
芸術には「アポロ的」芸術と「ディオニュソス的」芸術の二種類があるとニーチェは次のように述べます。
ギリシアの世界には、その起源からいっても、目標からいっても造形家の芸術であるアポロ的芸術と、音楽という非造形的芸術、すなわちディオニュソスの芸術との間に、一つの大きな対立があるということだ。……
この二つの衝動を、もっとわかりやすくするために、さしずめ一方を夢の世界、他方を陶酔の世界というふうに別々に考えてみることにしよう。……
この夢の世界の美しい仮象が、あらゆる造形芸術の前提であり、それどころか、のちに見るように、文学の重要な一半である演劇の前提でもある。……
夢の経験が当然なこととして喜び迎えられるということは、やはりギリシア人によって彼らの神アポロのうちに表現されている。姿かたちを描き出すあらゆる造形的な力の神であるアポロは、同時に予言の神でもある。その語源からいえば「輝く者」、すなわち光の神であるアポロは、空想的に心のなかに描き出される世界の美しい仮象をも支配するのである。……
根拠の原理がその具体的な形態のどこかで例外をゆるすように見える場合、人間は突然現象界の認識形式に迷いをおぼえ、途方もない戦慄的恐怖にとらえられるものだ……。個体化の原理が破れると、人間の、否、自然の、最も内面の根底から、歓喜あふれる恍惚感がわきあがるものだが、上に述べた戦慄的恐怖にこの歓喜あふれる恍惚を加えるとき、われわれはディオニュソス的なものの本質に一瞥を投ずることになるのだ。ところでこのディオニュソス的なものは陶酔の類推によって、われわれに極めて身近なものとなる。原始的な人間や民族のすべてが賛歌のなかで語っている麻酔的飲料の影響によって、あるいは全自然を歓喜でみたす力強い春の訪れに際して、あのディオニュソス的興奮は目覚める。それが高まるとき、主観的なものは消えうせて、完全に我を忘れた状態になるのだ。
と、いうわけで、夢の世界に対応する造形美術と、陶酔の世界に対応する音楽がある、とニーチェはいたします。
では、ソクラテス的なるものとはニーチェにとってなんであったかといいますと、それは「理論的楽天主義者」であり科学に対する信仰であって、今日の常識では当たり前の価値基準であるように思われるのですが、ニーチェによりますとこれは唾棄すべき思想です。
これはある意味当然の主張でして、芸術の世界で科学を押し通そうとしますと、「ウルトラマン」や「ドラえもん」も成立しないことになりまして、芸術表現はえらく肩身の狭いことになってしまいます。ハルヒが願えばなんでも実現してしまうような、ソクラテスに言わせればとんでもない世界が、芸術の世界であるわけですね。
しかしニーチェは、この考えを芸術以外の分野にも拡大しようといたします。こうなりますと、ちょっと待ってくれ、といいたくなるのですね。
悲劇の合唱団
しかしそのお話にまいります前に、同書の主題であります「悲劇の誕生」を見ていくことといたしましょう。ニーチェによりますと、ギリシャ悲劇とは、元々は、合唱であったと、次のように語ります。
さて、古代の伝承がきわめてはっきりとわれわれに伝えていることは、悲劇が悲劇の合唱団から発生したものであることと、元々悲劇は合唱団(コーラス)にすぎなかったのであり、合唱団以外のなにものでもなかったということだ。従って、この悲劇合唱団を本来の原始演劇として、ぜひともその核心に迫る必要があるわけだ。
こう前置きをしたのち、ニーチェは悲劇における合唱団の役割に関する諸説を紹介いたしますが、これらをことごとく退け、次のように解答を提示いたします。
ディオニュソス合唱団員としてのサチュロスの生きている世界は、神話と礼拝によって浄められた、宗教的に認められた現実の世界であった。サチュロスとともに悲劇が始まるということ、サチュロスの口を通じて悲劇のディオニュソス的知恵が語られたということは、およそ悲劇が合唱団から発生したということに劣らず、ここでわれわれに奇異な感じを抱かせる現象ではある。
これに対して私が以下のような主張を持ち出すとき、おそらく考察の糸口ぐらいは得られると思う。すなわち、架空の自然的生き物であるサチュロスが文明人に対する関係は、ディオニュソス的音楽が文明に対する関係と同じだというのだ。
文明についてリヒァルト・ワーグナーは、ランプの光が日の光によって消されるように、文明などというものは音楽によって消されてしまうと言っている。サチュロス合唱団を目のあたりにした時、ギリシアの文化人がその存在を消されたように感じたのも、これと同様だったと私は思う。そしてさしずめこれがディオニュソス的悲劇の最も手近な作用なのだ。すなわち国家や社会、一般に人間と人間とのあいだに設けられている断層が後退して、自然の心にわれわれをつれもどす強力な一体感に席をゆずるということだ。
事物の根底にある生命は、現象のあらゆる変化にもかかわらず、破壊しがたいほど強力であり快感にみちみちているという形而上学的慰め―すでにここで私が暗示しているように、すべての真の悲劇は究極的にはわれわれに形而上学的慰めをもたらすものなのだ―、この慰めが具体的明瞭さで現象したものが、サチュロス合唱団にほかならない。
この部分のイメージを得るためには、Wikipediaのサテュロス、サテュロス合唱隊、コロスなどが参考になります。
と、いうわけで、ディオニュソス的悲劇というものは、アポロ的造形芸術がただ美しい夢の世界を提供するのに対して、人々の心を動かし、互いに結び合わせる効果を生み出した、というわけです。そこに音楽の力があることをニーチェは指摘し、のちの章で、ドイツ精神の生み出した偉大な音楽家、バッハ、ベートーベン、ワーグナーにドイツ精神の再興を期待する、というわけです。
ソクラテスの英知を排除し、陶酔をもたらす音楽の作用に期待する、というのは少々危ない思想であるように思いますが、文化芸術を核として国民の心を一つにまとめようとするその考え自体は、さほどおかしなことでもないように思われます。
ソクラテスに対する評価
ニーチェのソクラテス評価は、彼に書かれた文章を読む限りでは、絶賛、といっても良いものであるように私には思われます。例えば、ニーチェはソクラテスの思想を次のように述べます。
科学の奥伝の伝授者であるソクラテス以後、打ち寄せる波のように哲学の流派が次から次と交代したこと、教養世界のきわめて広い範囲にこれまで予想もせられなかったほど知識欲が普及した結果、科学は桧舞台に押しあげられ、多少とも才能のあるひとには、すべて科学が本来の課題となったこと、しかも科学はその晴れの舞台から二度とふたたび追い出されることはなかったということ、またこの普遍化した知識欲のおかげで、思想の共通の網が全地球の上に張りめぐらされ、それどころか全太陽系に及ぶ法則さえも打ちたてることができると見こまれるようになったことをまざまざと思い浮かべるひと、実際、これらすべてのことを、現代の驚くばかり高い知識のピラミッドとともに思いうかべるひとは、ソクラテスのうちにいわゆる世界史の一つの転回点と渦巻きを見ないわけにはゆくまい。
というのは、こういう世界的傾向のために費やされた莫大な量の力が、かりに認識のためではなく、個人や民族の実践的目標、すなわち利己的な目標にふりむけられたと仮定してみればよいのだ。そうなれば、互いに血で血を洗うことになり、またたえまもない民族移動のために民族間にも弱肉強食が起こる結果として、おそらく本能的な生きるよろこびはひどく痛めつけられて弱くなってしまうことだろう。
この部分を見ますと、ニーチェのソクラテスに対する評価は決して低くはありません。もちろん、ニーチェは明治初期の人でして、科学技術を応用した大規模殺人が行われました第1次、第2次の世界大戦以前の人でした。この大量殺人劇を眼にしたら、ソクラテスをこうも高くは評価しなかったとも思われます。とはいいましても、ニーチェの指摘いたしますように、ソクラテス的な知恵が、少なくともディオニュソス的陶酔に世界が支配されるよりは、世界平和の維持に有益であったということはできるでしょう。
ディオニュソスを持ち上げ、ソクラテスを否定するのは、芸術論の範囲内であれば妥当な考え方ですが、社会関係の領域にまで同じ考え方を持ち込むことは到底できない相談です。これにはニーチェにも異論はないのではないかと思わせる文章ではあります。
なお、上の引用部にあります「世界的傾向」という言葉ですが、同書の翻訳には他にも「傾向」という用語が奇異に感じられる箇所が目立ちます。この原語が英語の“tendency”に相当する単語あれば、対応する日本語が「傾向」と「意図」という二種類の異なる意味を持つ単語であるため、訳し分けなければいけないところです。つまり「こういう世界的傾向のために」と訳された箇所は、「この意図で世界中が」とか「このために世界中で」などの訳にしたほうが適切であるように思われます。
幸いなことに、ニーチェの“Die Geburt Fer Tragödie(悲劇の誕生)”はグーテンベルグプロジェクトに収録されておりまして、ウエブで簡単に原文を見ることができます。この私の疑問につきまして、ちょっと確認をしておきましょう。
上の引用部後半は、原文では以下のようになっております。
Denn dächte man sich einmal diese ganze unbezifferbare Summe von Kraft, die für jene Welttendenz verbraucht worden ist, nicht im Dienste des Erkennens, sondern auf die praktischen d. h. egoistischen Ziele der Individuen und Völker verwendet, ...
やはり“Welttendenz”を「世界的傾向」と訳しておられるようですが、“Welt”が「世界(world)」 “tendenz”が英語で言えば“tendency”に相当いたしますので、上の私の指摘は正しいように思われます。(日本語訳としては「風潮」あたりが良いかもしれません。2011/10/23追記)
科学信仰に対する批判
閑話休題。ニーチェがソクラテスに批判的である理由は科学万能主義に対してであり、カントの不可知論がそのベースとなっております。「悲劇の誕生」の出版は1872年ですが、その30年ほど後の特殊相対性理論と量子力学の発展をみましたら、「だからいわんこっちゃない」などといわれそうです。
ニーチェの科学信仰批判について、p167から引用いたしましょう。
こういうソクラテス的文化の胎内に何がかくされているか、今となってはかくしておくべきではない! 自分が無制限だと妄想している楽天主義だ! この楽天主義の実が熟し、最下層までこういう文化によって十分に醗酵をとげた社会が、しだいにぶつぶついい出し、猛烈な欲望に押されて社会自体が揺れ出しても、なんの驚くことがあろう!
すべての人が地上の幸福を手に入れることができるという信仰、そういう普遍的な知識文化が可能であるという信仰が、しだいに、アレクサンドリア的な現世の幸福を求める威嚇的要求にかわり、一種のエウリピデス的な機械仕掛けの神である大変革を呼び出すことになったところで、びっくりする筋合いはないのだ!
アレクサンドリア的文化が、長期にわたって存続するためには、奴隷階級が必要だということを、頭においておかなければいけない。ところが現代の社会は、その楽天主義的存続観のために、そういう階級の必然性を否定している。従って、「人間の尊厳」とか「労働の尊厳」とかいった類の、誘惑的な気休めの美しい合言葉の効果がつきてしまうと、しだいに戦慄すべき破滅にむかって進んでゆくことになるのだ。
自分たちのためばかりでなく、あらゆる世代のために復讐をたくらむようになった野蛮な奴隷階級ほど、恐ろしいものはない。こういう威嚇的な嵐にむかって、われわれの青ざめた、疲れきった宗教に安心して訴える者が、どこにいようか。われわれの宗教自身が、その基礎のところで学者宗教になりさがってしまっているのだ。
その結果、あらゆる宗教の必然的前提である神話は、すでにいたる所で半身不随になっており、われわれの社会を破滅させる萌芽とも呼ぶべきあの楽天主義的精神が、宗教の領域においてさえ支配権を握っているありさまなのだ。
今日の経済情勢を考えますと、上の引用部のニーチェの言葉は、不気味な説得力を持ちます。しかし、ニーチェの論旨は少々おかしい部分がありまして、奴隷を否定した社会なら野蛮な奴隷階級を恐れる必要はないはずです。
また、古代ギリシャ社会が、すべての市民が経済的繁栄を謳歌するために奴隷を必要としていたとしても、今日の世界では、科学技術の発展により、経済的繁栄のために奴隷の存在が不可欠であるということにはなりますまい。ソクラテス的楽天主義は、ソクラテスのもたらした知識欲の追求により存続を許される、ということになります。
基礎はカント哲学に
ニーチェの知識に対する不信感は、実はカントの哲学に基礎を置いております。以前のブログご紹介いたしましたように、確かにカントは「アンチノミー」を取り上げ、人の知識の不確実さを主張いたしますし、外界の実在を人は知りえないといたします。
しかし、カントは基本的に啓蒙思想の人であり、知識に重きを置く人でした。誤解を恐れずに単純に言い切ってしまいますと、カントは、ニュートン物理学と哲学、認識論との調和を図ろうとした人である、ということもできるでしょう。今日の論理学や物理学の水準からカントを振り返りますと、カントの主張にはかなりのアラが目立つのですが、それでも、ソクラテス、デカルトの流れを汲む、普遍的な知識を重んじる哲学者の系譜に属す人であったということはできるでしょう。
ニーチェのソクラテス批判は先の引用部のすぐ後で展開されておりまして、以下のようになります。
大局に目をつける偉人たちは、信じられぬほどの思慮深さで、科学そのものの武器を逆手にとって、認識一般の限界と制約を示し、そのことによって普遍妥当性と普遍的目的に対する科学の要求を決定的に否定することを、とうの昔にやりとおせているのである。
因果律を手引きとすれば、事物の一番奥の本質までも究明できると思い上がっているあの妄想的観念が、はじめてその正体を見破られたのも、実はこういう偉人たちの証明によるのである。すなわち、論理の本質に隠されているものであると同時に、まだわれわれの文化の基底でもあるあの楽天主義に対する勝利、この困難きわまる勝利がえられたのは、カントとショーペンハウアーの非凡な勇気と知恵のおかげなのである。
楽天主義が、その立場からいえば疑いえない「永遠の真理」と称するものをよりどころとして、いっさいの世界のなぞも認識し究明することができると信じ、空間・時間・因果律を、最も普遍的な妥当性を持つ、完全に無制約的な法制として取り扱ってきたのに対して、カントが暴露したことは、元来これらの法則がどういう役割をはたしているかといえば、マーヤーのわざである単なる現象を唯一最高の実在に祭りあげ、現象を事物のもっとも内部の真実の本質のかわりにおくに過ぎないということ、従ってまた本質の実際の認識を不可能にするだけだということ、つまりショーペンハウアーの言い方によれば、夢見ている人をさらに深く眠りこませることに役立っているにすぎないということであった。
たしかに、カント以前の物理学が外界の実在を扱っていると信じていたのに対し、カントは外界の実在そのものを人は知り得ないことを示し、人が自らのうちに構成した概念を扱っているということを示しました。
しかしながら、カントは以前のブログでご紹介いたしましたように、科学は不可能であるなどといっているわけではありません。
カント以前の科学者は、外界の実在が持つ普遍性を科学の礎としておりました。しかし、カントは「普遍妥当性」すなわち、いつでも誰に対しても妥当することを科学的知識に対して要求しております。これは、「夢見ている人をさらに深く眠りこませる」などという表現とはまったく異なる考え方であると私は思います。
おそらくは、ニーチェはカントよりもショーペンハウエルの哲学を土台として上のような主張をしているのではないかと私は思います。ただ、私はショーペンハウエルに詳しくはないし、厭世論者の書いた書物などを読みたいとも思いませんので、このあたりは想像の域を出ません。ここでは、ニーチェの上の主張は、少なくともカントの哲学からは外れている、と指摘するに止めておきましょう
ディオニュソス的精神の発露
さて、ソクラテス的なるものに背を向けましたニーチェが科学の知識に代えて重視するものは知恵であり、そうであるならばそこにディオニュソス的精神の発露がありえるだろうと、先ほどの引用部に続けて、次のように書きます。
この認識によって、私があえて悲劇的文化と呼ぶ一つの文化が導き入れられる。そのもっとも重要な目じるしは、科学にとってかわって、知恵が最高の目標にすえられるということである。この知恵は、枝葉末節に走る科学の誘惑にあざむかれないで、不動のまなざしを世界の全体像にむけ、そこに写し出されている永遠の苦悩を自分自身の苦悩として共感的な愛の感情で受けとめようとするのである。
このような不敵なまなざし、怪物のただ中に躍りこむこのような英雄的性向を持って成長してくる一世代を思い描いてみるとき、これら竜退治の者らの大胆な歩み、彼らが完全で充実したもののなかで「決然と生きる」ために、楽天主義のあらゆる弱々しい教養に背を向けるときの誇りにみちた果敢さを想像するとき、このような文化の悲劇的人間が、厳粛と恐怖に向かって自分を鍛えるにあたって、一つの新しい芸術を、形而上学的慰めの芸術を、悲劇を、自分にふさわしいヘレナとして渇望し、ファウストとともにこう叫ばざるをえないのは、やむをえないことではなかろうか。
さて俺が、あこがれの強引きわまる力で、
あの無比の姿を生に引き入れてならぬはずがあろうか?
たしかに今日の科学研究で、重箱の隅をつつくような研究ばかりをするというのは、少々問題であるように私にも思えます。しかし、それを全部捨てて竜退治のごとき研究を始めようというのも相当におかしな考え方であると思います。
結局のところ、科学技術は細部も大事であって、それをおろそかにしては何事もなすことはできません。要は程度の問題、ということではないかと思う次第です。
現象について
さて、上の引用部でニーチェは、カントは「単なる現象を唯一最高の実在に祭りあげ、現象を事物のもっとも内部の真実の本質のかわりにおくに過ぎないということ」を明らかにしたとしております。これはまったく正しい指摘であり、その後の人類の思想の根底とされるべきであると私は思うのですが、今日の科学哲学はこの考え方から少々逸脱しているように思われます。
そもそも「現象」という言葉は、「自然現象」などの形で日常的に使われており、実在する自然界の動きそのものであると、多くの人は考えがちです。しかし、哲学的には、少なくともカントの考えを受け入れる限り、「現象」は人の精神内部に構成された概念です。たとえば、Wikipediaによれば、「カントにおいては、現象は物自体と対比され、現象は物自体と主観との共同作業によって構成されるものと考えた」とされております。
人は外界の事物について考えるとき、外界の事物そのものに対してではなく、自らの精神内部に構成された外界について考えている、というのは、いってみれば当たり前の話です。そしてまた、自らの考えを他人に伝達し、他人から彼の考えを受け取るときにも、やり取りされている概念はそれぞれの人の精神内部に構成された概念です。
しかしながら、今日の自然科学は、外界の事物そのものを扱っていると考え勝ちであり、これが例えば先週のこのブログでご紹介いたしました大森荘蔵の「脳産教理批判」につながったりいたします。
今日の思想界で大きな力を持っております英米系のプラグマティズムに礎を置く哲学は、人の精神内部に構成される「現象」と外界の実在が、同一物であるとまではいわないにせよ、その対応関係が完全である、少なくとも正常な精神状態の人であれば、精神内部の現象は外界の実在そのものとみなしてもかまわないと考えているように見受けられます。
しかしながら、この考え方は、すでに20世紀の初頭に破綻しており、ニュートン力学が相対性理論や量子論の登場によりその絶対的地位を失った後は、物理法則は仮説の域を出ないものと考えられており、「空間・時間・因果律を、最も普遍的な妥当性を持つ、完全に無制約的な法制として取り扱う」ことなどできないということは、まともな科学者であれば常識ともいえる考え方です。
であれば、物理法則とは何か、ということを考えるとき、それは人の精神による外界(自然)の記述である、と私は考えるわけです。この当たり前とも思われる考え方が、今日それほど一般的ではない、ということが大いなる謎でもあります。
では、そうであったとすると、ソクラテスの思想は否定されてしかるべきか、といえばそんなことは全然ありません。なにぶん、ソクラテスの知恵は、自らが知ることが中心であり、自らの精神内部の概念こそがソクラテスの最大の関心ごとであったわけですから。
それにしても、ニーチェがかくもソクラテスを嫌う理由が良くわかりません。別の書物では、ソクラテスの言葉「一人知者のみが有徳である」などを肯定的に引用したりしているのですから。
結局のところ、ソクラテスが科学の礎であったといたしましても、ソクラテスの根本的な思想は、後世の科学者には正しく伝わらなかっただけなのかも知れません。で、その大元としてのソクラテスをニーチェは攻撃している、と。しかしこれは大いなるお門違いであると私は思うわけです。