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cogito(コギト)とは書かなかったデカルト

以前のこのブログで、養老孟司氏の「唯脳論」をご紹介いたしましたが、そのなかで次のように書きました。


ところで、p122のデカルトのコギト、同書によりますと、以下のように書かれています。

「考える」主体などというものは、言語の形式上、ここに紛れ込んできたものであって、そんなものはもともと要らない。
……
ところで、デカルトはこのことに気がついていたのではなかろうか。というのは、かれの言い方は、ラテン語でcogitoだからである。ここには「我」という主格が独立の語としては現れていない。……脳の話に「我」が入るのは、話をややこしくしこそすれ、単純にはしない。

デカルトの「われ思うゆえに我あり」は、ラテン語で言えば、「エゴ・コギト・エルゴ・スム(ego cogito, ergo sum)」です。デカルトさん、主語のegoも、本にはきちんと書いているのですが、一般には、この言葉、日本では「コギト・エルゴ・スム」と言われているのですね。極端な場合は、「コギト」。

まあ、ラテン語には格がありますから、コギトやスムは第一人称、ということなのでしょう。私の知る数少ない大陸系言語でありますセルボ・クロアチア語では、ヤー・サム・xxなどというのは、私はxxである、という意味ですから、sumはたぶんbe動詞の第一人称変化だと思いますよ。これだけでも、主語は確定しているのですね。


こう書きました理由は、日本語訳のデカルト著「哲学原理」などに“ego cogito, ergo sum”というラテン語表記が御丁寧に入っているからですが、このラテン語がデカルト自身が著した原著に入っているのかどうかは今ひとつはっきりいたしませんでした。

ところで、先日のブログプロジェクト・グーテンベルクを引用いたしました。これは、著作権の切れた名著を誰でも読める形にしたものでして、明治時代のニーチェがあるならば関が原合戦の頃のデカルトもあるのではなかろうか、と著者「Descartes(デカルト)」で検索してみました。

ところが、どこを捜してもこの言葉はありません。大体、ラテン語の書物は「省察(Meditationes de prima philosophia )」くらいでして、ほとんどがフランス語。しかも、フランス語の書物にラテン語の注記など入ってはいないのですね。

ちなみに、ラテン語版「省察」のこれに該当する言葉は“ego sum, ego existo”「我あり、我存す」です。これはしかし、何も語っていないような言葉ではあります。まあ、主語“ego”が入っていることだけは注目しておいてもよさそうですが。

これは不思議、とwikipediaの「我思う、ゆえに我あり」の項をみましたところ、なんとデカルトはラテン語でこの言葉を書いてはいない、とされております。

そうなりますと、この有名なラテン語はデカルトの言葉ではない、ということになります。もちろんそういう意味の言葉はデカルトが発しているのですが、それなら「我思う、ゆえに我あり」と素直に書けばよいだけの話であって、何もわざわざ「コギト」などとラテン語で言わなくちゃならない理由はまったくないのですね。

上の唯脳論での養老氏の書き方も、デカルトがラテン語でこの言葉を発したことが前提のような書き方ですが、これは大いなる誤解であった、ということになります。それどころか、たいていの人が同じような誤解をしているのではないでしょうか。

まあ、だからどうだということではないのですが、一つ賢くなりました、というお話です。

なお、Wikipediaの方法序説の項によりますと、デカルトはフランス語で“Je pense, donc je suis”と書いたとのことで、主語“je”はきっちり入っております。したがいまして、冒頭に掲げました養老氏の主張は間違っている、との結論だけは正しいものと考えられます。


ところで、コギト・エルゴ・スム(われ思うゆえに我あり)という言葉をデカルトが発した(!?)意図は、「すべてを疑ったとしても、疑っている自分自身の存在を疑うことはできない」ということでして、この「疑う」が「思う(考える)」に変化してきているのですね。

で、上のwikipediaをみますと、この論理は正しい三段論法とはいえない、という指摘がなされております。

正しい三段論法は、
1.考える(思う、疑う)主体は存在する
2.私は考えている(思っている、疑っている)
3.ゆえに私は存在する
ということになるのですが、1の命題が正しい保証はない、というわけです。

確かに三段論法の形式を要求すれば、この言い分はもっともです。しかし、デカルトはこれを三段論法として述べているのではないように私には思われます。

つまり、自分自身の存在を疑ってしまったら、疑うという行為自体が無意味になる、という主張であると私は解釈いたしました。

思考するという行為は、自らの存在が前提となっております。また、これを書物に表すという行為は他者の存在が前提となっております。これを否定するのであれば、最初から考えるだけ無駄であり、本を書く理由もないのですね。

また、思考する主体の実在というものは、三段論法のような明確な形では、おそらくは証明不可能ではないか、と私は考えておりまして、これは、人と同様に思考する機械が製造できるであろうという私の確信と表裏一体のものです。

と、いいますのは、人の脳に超自然的作用が認められない以上、脳は物理的な存在であって、物理的な存在であるならば人はそれを作り出すことができるはずです。しかし、仮に大きな計算機が人と同様に思考を始めたとして、そこに思考する主体が存在すると、どのようにして証明することができるのか、という問題があります。

普通に考えれば、そこには大きな計算機があり、プログラムが走っているだけであり、それが人と同様の思考をしているようにみえたところで、「考える主体」など存在するとはいえません。まあ、おそらくそいつは「コギト・エルゴ・スム」などと言い出すかもしれないのですが、それはプログラムがそういう言葉を吐き出しているだけなのですね。

人工知能を作ったとき、それが人工知能といえるのかどうかという判定に「チューリング・テスト」という手法が知られております。これは、人がそれを人であるのか機械であるのか見分けられなければそれは人と同じ知能を持つといえる、という判定基準でして、知能の絶対的判定基準ではありません。逆に言えば、その絶対的な判定は非常に難しい、といえるでしょう。

このことを逆に捉えますと、人の意識といえど、自らがそう感じているだけの存在であって、物理的な実在としては、単なるニューラルネットワークの中のインパルスの伝達に過ぎないと考えるしかない、というのが実情であるわけです。

しかしならば、人の意識など無意味な存在であるのか、といえばそういうわけでもありません。まず、自らが考えている、というそのことがすべてに先行するともいえるわけで、やれ物理的実在がどうのこうのとか、ニューロンが云々ということにしたところで、私なり世の人々なりがそう考えているに過ぎない、ということだってできるわけです。

そうなりますと、どこを出発点にすればよいのか、という問題になります。これには、サルトルではありませんが「実存は本質に先立つ」という言葉が意外な重みを持つように思われるのですね。

つまり、自分自身がとにかく考えている。考える意味があると自分自身で感じている。ならばその上にすべての論理を構築すべきであって、それが無意味になると結論付ける命題は、その結論ゆえに退けられて然るべきである、と思うわけです。

そういう縛りを設けますと、思う我の存在は否定することはできません。そもそも、理屈以前に存在する、と言い切ってしまっても良いのですが、それでは話になりませんので、コギト、、、という理屈をつけておこう、というわけです。


ところで、以前のブログでは心身二元論を、漫画におけるインクとストーリーとの関係との関係になぞらえて解説いたしましたが、この対応関係について釈然としない思いを抱かれた方もあるいはあるかと思います。

心身二元論といいますものは、主体と客体という捉え方もできるのですが、そう捉えてしまいますと、漫画におけるインクとストーリーの関係とは少々異なる見方となってしまいます。そうではなくて、双方を客体としてみるならば、身体と心の関係は、漫画におけるインクとストーリーの関係に一致いたします。

つまり、客体として捉える、という意味は、例えば自分自身を一段と高いところから考察するという意味でして、第三者的に考える、という意味です。そこには、心を持った自分という人間がいるのと同時に、物理的存在である自らの身体があるのですね。

この二つの概念は、同じ自分自身という実体の上に重なって並存する概念であり、いずれか一方が真実であり他方が錯覚である、ということはありません。これが、漫画がインクであると同時に物語でもある、というのと同じであると、前のブログでは言いたかったわけです。

自分自身について考えることが難しければ、他人について考えてみれば、容易に御理解いただけると思います。

さて、そうなりますと、漫画のストーリーの実在性も、実は証明することができないはずなのでして、それを鑑賞する人がいるからストーリーが生まれる、と考えるべきでしょう。

漫画のストーリーというと、いかにも存在しそうな話なのですが、それでは、ライオンの姿にそっくりな大きな岩があったとして(獅子岩、なんてのをどこかでみた記憶がありますが)、そこにライオンの姿は実在するのかと問われれば、そこにあるのはただの岩なのであって、これを見た人がライオンの姿を感じ取るだけである、といえばご納得いただけるのではないかと思います。

ではだからライオンの姿がないのか、といえばそれは確かにあるのであって、それを見た誰もがそこにライオンの姿を見出すとすれば、そこにはライオンの姿がある、といえるのですね。

これが普遍妥当性というものであって、これをベースにあらゆる真実を、あらゆるものの実在を考えなくちゃいけません。そして、普遍妥当性が成り立つ前提は、多くの人々の主体としての意識の存在です。

普遍妥当性の元に存在するということは、人とは無関係にそれ自体で存在するという意味ではなく、思惟する存在としての人なり社会なりの主観の元にそれは存在する、という意味です。

そういう背景があるからこそ「我思うゆえに我あり」という言葉が意味をもつのだ、と私は考える次第です。


この問題に関しては、こちらに正解と思われる解釈を記述いたしました。


こちらにまとめを掲載しました。