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わが意を得たり。塩川仲明著の「民族とネイション」

民族やナショナリズムをめぐっては、このブログでも8月の記事で姜(カン)氏と森巣氏の「ナショナリズムの克服」を読んだり、6月の記事では小熊英二氏の「単一民族神話の起源」を読んだりしております。

その際に、「民族」とは何かという、そもそもの定義がはっきりしないことが問題であると常々感じており、さらには、同じ民族であるのかそうでないのかが、いかに判定されるかという点においても極めてあいまいさを残している、という問題を感じておりました。

本日読みます塩川仲明著「民族とネイション―ナショナリズムという難問」は、この問題に答えてくれる良書であると思います。結論を言いますと「難問」である、というのがその答えなのですが、、、

同書は5章構成でその章立てと概要は以下のようになっております。

第I章 概念と用語法―一つの整理の試み

この章で著者は「エスニシティ」、「民族」、「国民」、「ネイション」という用語の定義を試みます。ただし、これらの用語は使う人やその立場、使われる地域や時代によってさまざまであり、統一的な概念ではありません。ここでは最大公約数的解釈が示されることになります。

著者によりますと、これらの言葉の定義は次のようになります。

エスニシティ国家・政治とのかかわりを括弧に入れて、血縁ないし先祖・言語・宗教・生活習慣・文化などに関して、「われわれは○○を共有する仲間だ」という意識―逆にいえば、「(われわれでない)彼ら」はそうした共通性の外にある「他者」だという意識―が広まっている集団を示す、と考えることにする。

ここで、血のつながりを重視するのか、文化を重視するのか、といった恣意性がありますし、同じなのか違うのかという判定に関しても、その基準はあいまいです。ただし、主観的には確固たる実在とみなされるような、そういう集団としての特性をもつ、と著者はいたします。

民族エスニシティを基盤とし、その「われわれ」が一つの国ないしそれに準じる政治的単位をもつべきだという意識が広まったとき、その集団のことを「民族」と呼ぶことにする。

国民ある国家の正当な構成員の総体と定義される。この定義は明瞭ではあるのですが、あるエスニシティが国家を形成すれば民族と国民の概念は重なりますし、ひとたび国家が成立すれば、その内部に異なるエスニシティの集団が含まれていても、これを単一のエスニシティと解釈し、国民の意識を統一しようという政治的な動きが生じる、という相互作用もあります。

ネイション:実はこの言葉の日本語訳として「国民」と「民族」の二つの言葉が割り当てられております。「ネイション」という言葉が日本語の「国民」という意味に近い感覚で用いられる地域もあれば、「民族」という意味に近い感覚で用いられる地域もあり、話をややこしくしております。

第II章「国民国家」の登場

ネイションが形成されたのは、フランス革命と、その後のナポレオン戦争がきっかけとなりました。フランス革命で国民主権が意識され、ナポレオン戦争により他国もネイションを意識するようになった、というわけです。

フランスが「自由」、「平等」といった普遍的理念を基盤とし、エスニシティを基盤とはしていない、「国民」を作り出したのに対し、ドイツはドイツ語という共通の基盤に立つ「民族」を仲立ちとして統一いたしました。その他の国々も、それぞれ異なる形で「国民」概念と「民族」概念が錯綜した関係にあります。

第III章 民族自決論とその帰結―世界戦争の衝撃の中で

第一次大戦後、広大な領土を保有しておりましたオスマントルコ、ハプスブルク帝国とドイツが敗戦国となり、ロシア帝国が革命により崩壊いたしますと、中東欧に権力の空白が生じ、「民族自決」のスローガンの元に多数の国家が誕生いたします。

ただ、それぞれのエスニシティが地域的に分かれていたわけでもなく、政治的な力関係で国境線が引かれたこともあり、民族の分断や国内少数民族の問題を抱えることとなります。同様な現象は第二次大戦後にも生じ、アジア、アフリカ諸国も独立を果たすこととなります。

第IV章 冷戦後の世界

1989年の冷戦終結とソ連崩壊の結果、中央アジアから東欧にかけて、新たな民族自決の動きが生じます。また、「唯一の超大国」としての米国が新たな「帝国」的振る舞いをする一方、ヨーロッパではEUが拡大いたします。

ユーゴスラヴィアにおいては深刻な内戦が勃発し、民族別の国家に分裂いたしますが、民族の分断や少数民族という、これまでと同じ問題が尾を引くこととなります。

第V章 難問としてのナショナリズム

ナショナリズムという概念は、植民地が次々と独立した時代までは肯定的に受け止められていたのですが、今日ではユーゴ内戦をはじめとする紛争と大量虐殺の原因となるなど、そのマイナス面が強く意識されるようになり、「ナショナリズムの克服」が唱えられるようになりました。ナショナリズムには「よいナショナリズム」もあるのではないかとの主張もあるのですが、その線引きは難しいというのが現実であるといたします。

以上、同書の内容を簡単にご紹介しましたが、この本の価値は膨大な事例を紹介した細部にもあり、これらを割愛したご紹介ではこの本の本当の価値をわかってはいただけないとは思います。今日の世界情勢に御興味のある方は原書を御一読されることをお勧めいたします。

昨今の中国や韓国の民族意識の高まり(反日運動)には少々眉をひそめておりますが、そのとき「なんと程度の低い人たちなんだろうか」との思いに駆られることも事実です。同時にこれに対する日本側の民族意識の高まりについても、「同じレベルで張り合ってどうするのか」との思いが先にたち、積極的な意義を認めがたいのですね。

こんな私の感覚は、なんとも説明のしがたいものであり、そもそも理論以前に定義がはっきりしていないのではなかろうか、との思いを常々抱いておりました。そんな私の感覚を、この本はサポートしてくれるような気もいたします。つまりは、この問題に理屈などない、ということですね。

来月になりますとオバマ氏が米国の新大統領に就任いたします。オバマ氏のバックボーンの一つがまさにエスニシティの克服であり、来月以降の世界がどのように変わるか、大いなる期待と興味を持ってみていきたいと考えております。

先日のニュースに麻生氏書店で本を購入というものがありました。「日本はどれほどいい国か」を読むことも否定はいたしませんが、本当に読んでいただかなくてはならないのはこのような書物ではなかろうかと私は思う次第です。