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坂井克之著「心の脳科学」を読む

本日は、先月でました比較的新しい本から、坂井克之氏の「心の脳科学」を読むことといたします。

同書について

著者は医学部出の脳科学の専門家なのですが、この本は人文社会系研究科で行われた講義内容に基づいており、理科系以外の人に向けた内容となっております。しかしその内容は、茂木健一郎氏の口癖ではありませんが、「最近の脳科学」の驚くべき到達点を紹介するものであり、今を生きる人には知っておいたほうが良い情報であるように私には思われます。

まずはご紹介とまいりましょう。同書は3章10節と終章からなっており、章立てと概要は以下のようになっております。

第1章 外の世界、内の世界

 第1節 未来の脳社会

SF仕立ての未来の入学試験のお話から、最近発達いたしました脳を分析する手法に話題が進みます。

この最新の分析手法「機能的核磁気共鳴画像:fMRI」を開発いたしましたのは、なんと日本の小川誠二氏とのこと。ノーベル賞も夢ではなさそうです。解像度は1~3mmというこの装置、少々大きな装置なのですが、被験者にこの中に入っていただきますと、考えているときに脳のどの場所が活動しているのかを画像としてみることができます。

 第2節 脳の中の世界地図

この節では、視覚情報が脳の中でどのように扱われるかが説明されます。

視覚情報は、網膜上の位置を保ったまま、V1からV8の8つの領域で処理されます。最初に処理を行うV1は刺激の有無と線の傾きを分析し、V2とV3はさらに複雑な分析を行います。V4は色を処理し、V5は運動を処理するといった形に順々に複雑な処理が行われます。

 第3節 脳のアナリスト

脳には、人の顔を見たときに活発に活動する「顔領域」が、すべての人のほぼ同じ位置に存在します。この領域に損傷を受けると、人の顔が識別できなくなります。この他、風景や建物を処理する「建物領域」などなど種々の領域があることが知られております。子供が文字を学習すると「文字領域」が明瞭になってまいります。

 第4節 見ることと、見えること

人がものを見るとき、その処理はまず無意識の元に行われ、見たことが意識に上らない場合にも、脳は無意識のうちに見たものに反応いたします。人は左右の目で別々に見たものをつじつまの合うように再構成いたします。

てんかんの患者にまれにみられる「幽体離脱体験」は、脳がつじつまの合うように視覚を再構成する機能によります。ゴーグルとテレビカメラを用いると、これに似た体験を健常者にもしてもらうことができます。これから著者は以下のような驚くべき発言をいたします。

わたしたちは目からの視覚情報、触覚などの体性感覚情報、身体の関節などの位置感覚情報、それから平衡感覚情報を統合することによって、自我の存在する(と感じられる)位置を決めているのです。実際には、この自我というものは、少なくとも現実空間内には存在しません。脳が作り上げた仮想的な存在に過ぎないわけです。でもこの自我が現実空間内、特に自分自身の身体、しかも眼の奥に存在するという幻想は非常に強力です。
……
自我は虚構です。でもこれがあるからこそ私たちは、「わたし」がこのものを見ているという実感を抱くことができ、また「わたし」が自分の身体を動かして行動しているのだという実感を持つことができるのです。自我なんてものは、科学研究の対象にならないと思われていましたが、その幻想を脳がつくりあげるメカニズムの研究はこのようにして一歩一歩着実に進んでいます。

第2章 「わたし」と「あなた」

 第5節 時間を越えて存在する「わたし」

自我の一つの特徴として、時間的に連続した存在であるという意識があり、記憶が自我を構成するための重要な要素であると考えられます。記憶を担っているのは「海馬」と呼ばれる部分であり、これが大脳皮質の広い部分に蓄えられた記憶を結び付けています。海馬は睡眠中にも活動しており、睡眠により記憶が強化されます。

 第6節 知性を制御する仕組み

知能の働きを必要とする問題を説いているとき前頭葉が活発に活動いたします。また、知能指数が高い人ほど前頭葉が大きいという傾向も認められます。ただし、個体間のばらつきも大きく、前頭葉が大きいことがすなわち頭の良いことであるということにもなりません。

前頭葉の働きは、必ずしも意識的になされているわけではなく、意識に上る数秒前から前頭葉の活動が活発化することもあります。

 第7節 社会的な脳

人の脳には他人の考えや感覚を知る機能があり、これを担っているのは前頭葉内側領域です。倫理的なジレンマに陥った場合、前頭葉内側領域と前頭極部(脳の先端の部分)が活動いたします。

第3章 物質としての脳と心

 第8節 遺伝子によって左右される脳

ハードウエアとしての人の脳は遺伝により決まっており、特定の遺伝子が記憶能力や感情の働きを左右することが知られております。遺伝的要素がもっとも強いのが「知能」なのですが、もちろん人の能力はその後の努力次第で大いに変わるものではあります。

 第9節 脳はここまで変わる

楽器の奏者、ロンドンのタクシードライバーなど、特定の訓練を受けた人は、脳の特定領域が広くなります。ただし、他の部分が狭くなっております。

生まれつき盲目の人が点字を学習すると、本来視覚に使用される視覚領域が反応するようになります。難聴者の聴覚領域は視覚に使用されます。このため、蝸牛インプラントにより聴力を取り戻すには、聴覚を失ってから5年以内の手術が必要であるとされております。

 第10節 21世紀の読心術

植物状態の人も脳は働いているという事例が見出されております。脳の内容を読み取り機械を制御するBMI(ブレイン・マシン・インターフェース)も研究されておりますが、fMRIのような大掛かりな装置を用いたのでは一般的な利用はできそうにありません。

その他、嘘発見器にこれらの知見を使おうという試みもなされていますが、これまでのところでは実用レベルには達していないようです。

終章 物質現象の結果として「わたし」が生まれる

人の精神的活動というものは、脳の中のインパルスの働きに還元されます。それどころか、脳の中で生じていることを人がすべて意識しているわけでもありません。そして「この機械的な反応をする装置が「わたし」を生み出しているのもまた間違いのない事実です」と著者は述べます。

このような研究は他人の心を操作するといった危険性もはらむものの、心の問題は当人の責任と考えられてきたことが、物質的な問題であることがわかった結果、治療に結びつくというポジティブな側面もあります。

そして最後に横たわる難問として、著者は「その先には『わたし』が物質を基盤として成立しているというハードルの高い真理があります」と述べ、以下の文章で同書を締めくくります。

真理はそれ自体が絶対的な価値を持つものであるとわたしは信じています。わたしの仕事は、他の多くの研究者と手を携えて、できるだけ真理に近づき、これをできるだけ正確な形で発信してゆくことです。

心と脳科学

脳科学の最先端がここまで人の心に迫っているという事実は、ある意味で、ショッキングではあります。

しかし、少なくとも哲学を語る人は、同書の提示する難問に、何らかの解を持っていなくてはならないでしょう。と、いうわけで、ここでは私なりの解を示すことを試みてみたいと思います。

まず、哲学も含む人文社会学系の多くの学問分野では、人の心を扱っております。脳科学が進歩して、人の心が物理現象として説明された場合、これらの学問上の問題にも脳科学が適用できるようにも思えるのですが、脳科学で解決される分野は一部にとどまるだろう、と私は考えております。

もちろん、一部とはいっても、たとえば哲学の分野であっても、かなりの部分まで脳科学の知見を取り入れなければいけません。

カントは、人が認識する外界は、その人の心の内部に構成された外界を認識しているのであって、「悟性(無意識的な知性の働き)」により概念と結びつけてこれを理解している、と述べております。この主張は今日の脳科学の説明とほぼ重なり合っております。

倫理と論理とは別の世界に属するということも、多くの哲学者が語っておりますが、倫理が人間本能に根ざす非論理的な世界であるという知見が脳科学で確立されますと、このような主張の正当性も裏付けられるでしょう。

しかしそれでは脳科学がすべてを説明するかといえば、それも無理な話であって、概念や価値観がどのようなメカニズムで機能しているかを説明できたところで、概念の内容に関する議論はできないであろう、というのが私の考えです。

世界に対する複数の見方

このブログで過去に何回か話題にいたしましたように、まんがにおける物語とインクの関係を考えていただければ、このことはわかり易いと思います。

脳科学が行っていることは、まんがにたとえればその物理的構成の探求であり、そこに見出されるものは絡み合ったセルロースに付着しているインクであって、まんがの意味内容、豊かなストーリーを自然科学的アプローチでは決して見出すことはできません。これに類似した状況が、脳科学が人の心を解析する場合にも生じるのではないか、と私は考えております。

もちろん、インクとセルロースのたとえはニューロンの機能の解明に対応するものであり、今日のは脳科学は概念を含む分析がなされております。しかし、まんがを分析する際にも、セルロース上のインクのパターンから概念を抽出することだってできるのですが、これを行ったところで人がまんがを読むこととはまったく異なる行為です。

脳が人の顔を認識しているということが定量的に示されたところで、デジカメが人の顔を認識してピントや絞りを合わせている機能を説明するのとさほど異ならず、人が他人の顔から受ける主観的印象と同じレベルの議論は、脳科学には無理な相談であると私は考えております。

脳科学が進んで、研究者自らの脳がリアルタイムで明瞭にわかるようになったとき、どのようなことが起こるでしょうか。これに類似したものを以前の歌番組で見たことがあります。番組の最後に、テレビカメラはそれが写している映像が表示されているモニター画面にズームインするのですね。

こういうことをしたときに、何か神秘的な現象が生じる―テレビの神様がそこに現れる―などということを期待してはいけません。

テレビカメラが、それが写している画像を表示したモニター画面を映したとき、そこに見られるのは、全面一様な色(例えば真っ白の)ブランク画面でしかありません。そこでは情報がぐるぐる回っているだけであり、回路の特性により特定のカラーに全面が収束してしまうのですね。

自らの脳の活動内容を自らが分析するという行為は、テレビカメラが捉えた映像をテレビカメラで捉えるというシチュエーションと同じで、何の情報も得られないように思われます。

結局のところ、脳科学が進歩したところで、そこで明らかにされた知識によって心が成り立つメカニズムを説明することはできるのでしょうが、人がいままさに感じている自分自身の心の意味内容―価値観、倫理的・美的判断それ自体―について語るためには、脳科学の成果とはまったく異なる論理が必要であろう、と私は考えております。

人の心を支えている物理的機構に関する論理世界と、人の心が感じる意味内容の論理世界とは、世界を異にしており、一方がわかったからといって他方がわかるというものでもありません。しかしながら、その間の境界線は、まんがとインクの関係以上におぼろげとなっております。

脳科学は哲学から分離するか

哲学がカバーする学問領域といいますものは、人間知性の対象とする領域のうちで他の学問分野が扱わない「その他」の部分であって、「その他」であった領域が一つの学問として成立しつつあるのが今日の「脳科学」であるともいえるでしょう。

同じような状況は過去にも何度かありました。ギリシャ時代には、今日物理学とされる領域も哲学の一部でした。論理学や心理学も、かつては哲学の一領域でした。これらの個々の領域が掘り下げられるに従って、かつては哲学上の難問とされた領域も、論理的に解明されるようになってまいりました。

脳科学と哲学の関係、その間の境界線については、いまだ明瞭ではないのですが、カント哲学のかなりの部分は脳科学とオーバーラップしているように思われますし、論理世界と美学・倫理の領域を別物であるといたしましたヴィトゲンシュタインも慧眼であったように思われます。一方で、論理に礎を置くプラグマティズムは、その基礎が揺らぐ可能性も秘めているように、私には思われます。

科学と哲学の境界をめぐる問題は、相対論や量子論といった20世紀以来の物理学の進歩に関しても生じているように思われます。哲人カントは、200年前の人ですので、ニュートンの物理学は押さえておりましたが、20世紀の物理学の進歩とは無縁の人です。

カントの著書の内容もこれをすべてを受け入れるのではなく、これら20世紀以降の物理学の進歩や論理学の成果、そして今日では脳科学の成果により、適切な修正を施した上で読み取らなければいけないように思います。

しかしながら、以前のこのブログでご紹介いたしましたほうに、カントの書物は普通の人が理解することは困難である一方で、相対論や量子論を物理を専門としない人々が理解することも非常に難しいのが実情です。

脳科学につきましては、幸い、それほど難しいこともないことが救いであるとは思います。同書のきっかけとなりました脳科学の専門家による人文社会系研究科での講義のような試みは非常に良い試みであると思いますとともに、同様の試みが、相対論や量子論といった、物理学の他の分野でも大いに行われてしかるべきではないか、と強く感じる次第です。

ちなみに私はいずれの分野の専門家でもなく、さまざまな分野を広く浅くかじっているに過ぎません。でも、まるで判らないというほどでもないと自負しておりまして、本ブログが多少なりともこれら異分野の架け橋となりましたら幸いであると考えております。

海馬について

しかしこの本には大脳辺縁系の話が出てきませんね。実は大脳辺縁系と呼ばれる領域は、記憶をつかさどるとして同書でも紹介されている海馬を含んでいるのですが、感情に関係する部分です。

この領域、人の脳の中では発生学的に古い領域でして、臭覚に関連する領域です。つまりは、人間も元をたどれば臭覚が発達していて、感情的に動いていたということなのでしょう。で、その部分に海馬という記憶をつかさどる部分があるのですね。

私のブログの「オリジナル文書」におきました実験的小説レイヤ7は人工知能が活躍するお話で、必然的に脳のお話も含んでおります。ここで面白そうなのが、人の心に並存する二つの異なる論理であります「論理と感情」でして、このお話では感情の処理を含めたがゆえに人工知能が成り立つという着眼点を一つのベースとしております。

感情的部分(倫理や美学を含む)と論理処理の部分というのは、おそらくは人の心のあい矛盾する二つの重要な要素であって、この調和が人の幸せにつながるのではなかろうか、と私は考えている次第です。

そのあたりをもう少し掘り下げていただけると、もっと面白かったように思います。まあ、それがないからといって、別に文句をいうべき筋合いもないのですが、、、