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クレージーな人たちに乾杯

アゴラに渡部薫氏が書かれております「スティーブ・ジョブズ 終章 - 講談社より公開」から以下ジョブズの言葉を中心に引用いたします。(動画はこちら。文章よりも動画の方が余程良いですよ。)

アップルによる追悼式は、その3日後、アップルキャンパスで行われた。
……
クライマックスの主役は、ジョブズ自身だった。晴天のもと、まるでよみがえったかのように彼の声が中庭に響きわたったのだ。……続いて、リチャード・ドレイファスではなくジョブズ自身がナレーションをしているものが、初めて公開された。ジョブズだとすぐにわかる声がスピーカーから流れ、集まった人々の間に広がってみんなの心を揺さぶる。

「クレージーな人たちに乾杯。はみ出し者。反逆者。厄介者。変わり者。ものごとが世間と違って見える人……」
……
「ルールなどわずらわしいだけの人。現状など気にもしない人。彼らを引き合いに出すことはできる。否定することもできる。たたえることもけなすこともできる。できないのはおそらくただひとつ――彼らを無視すること」
……
「人類を前に進める人だから」
……
「彼らをおかしいと評する人もいるけれど、我々はそこに天才の姿を見る。なぜなら、世界を変えられると信じるほどおかしな人こそ、本当に世界を変える人だから」

つまりそういうクレージーな人が人類を前に進める人である、とジョブズは語っているのですね。

これで思い出したのがSTAPをめぐる騒動のこと。小保方氏に対するこまごまとしたルール違反の指摘が、ネットの世界でも、マスコミでも、学術世界でも数多くなされてきたのですが、それが行き着いた先は、他の研究者たちも何がしかのルール違反をしでかしたということで、次々と謝罪の記者会見を開く始末となっております。まったくばかげた話です。

STAPの問題は、iPSよりも優れているとした当初の理研の誇大発表と、小保方氏の写真の取り違えが大きな問題であり、それ以外の研究ノートの不備や写真の切り貼りはたいした問題ではないとすべきだったのではないでしょうか。問題ではない、というわけではありませんが、あまり細かなことをとやかく言っておりますと、研究が前に進まなくなってしまいます。

ゴールデンウィークは由比の桜海老漁のシーズンでして、由比漁港は桜海老を求める多くの観光客でにぎわうのですが、桜海老漁が始まりましたきっかけは、網を入れる水深を誤ったこと。間違った深さに網を入れたところ、桜海老が大量に採れたのが由比の桜海老漁の始まりでした。

これはクレージーというよりはそそっかしいというのがぴったりいたしますが、あたり前のことをきちんとやっているだけでは大きな進歩はいたしません。イノベーションに必要なのは、まさにそういう人たちなのですね。もちろん、そそっかしさゆえの大きな事故は避けなくちゃいけないのですが、、、

小保方氏の問題行為が単なる間違いであるといたしますと、そのそそかしさはサザエさんなみ。ひょっとすると何事かをしでかしてくれるのではなかろうか、と個人的には多少の期待をいたしております。


4/30追記:松本恭攝氏のページから、ジョブスの言葉の原文と和訳を以下に引用いたします。(段落と順番を一部変更しました。また、グレーの部分は私の茶々です)

Think different

自分の頭で考えよう(って、ちきりん?)

Here’s to the crazy ones. The misfits. The rebels. The troublemakers. The round pegs in the square holes. The ones who see things differently. They’re not fond of rules. And they have no respect for the status quo. You can quote them, disagree with them, glorify or vilify them.

クレージーな人たちに乾杯。はみ出し物、反逆者、厄介者、変わり者。物事が世間と違って見える人。ルールなどわずらわしいだけの人。現状など気にもしない人。彼らを引き合いに出すことは出来る。否定することも出来る。たたえることもけなすことも出来る。

About the only thing you can’t do is ignore them. Because they change things. They push the human race forward. And while some may see them as the crazy ones, we see genius. Because the people who are crazy enough to think they can change the world, are the ones who do.

出来ないのはおそらくただひとつ―彼らを無視すること。なぜなら彼らは物事を変える人だから。人類を前に進める人だから。彼らをおかしいと評する人もいるけれど、我々はそこに天才の姿を見る。なぜなら、世界を変えられると信じるほどおかしな人こそ、本当に世界を変える人たちなのだから。

これは元々はアップルのコマーシャルだったのですね。で、ジョブズの葬儀に際してジョブズ自身のナレーションが流された、ということなのでしょう。ちなみに上のリンクの声はジョブズであるようです。

この英文、ひょっとすると、どこかの大学の入試に出るかもしれませんね。難しい単語は“status quo”、「現状」という意味です。その他、“Here’s to XXX”で「XXXに乾杯」ということになるのですね。「四角い穴の丸い杭」はそのままに訳しても良さそうなものですけど、「四角い部屋を丸く掃く」ではちょっとまずそうです。まあ、「四角い世間の丸い人」あたりが適当ですかね。

と、いうわけで自己流で訳すとしたら以下のようなものになりますでしょうか。

クレージーな奴に乾杯。はみ出し物、反逆者、厄介者、四角い世界の丸い奴、独自の視点をもった奴。連中はルールが嫌いで、現状を尊重しない。奴の言葉を肯定しても否定しても良いし、奴をたたえてもけなしてもよい。

だけど奴を無視しちゃいけないね。なぜなら奴がすべてを変えるから。奴が人類を前に進めるから。クレージーと思われているような奴は、俺たちからみりゃ天才さ。世界を変えられると考えるようなクレージーな奴が世界を変えるのだから。


5/1追記:岩波新書の「禅と日本文化」は鈴木大拙師になる英語の書物を北川桃雄氏が日本語に翻訳されたもので、元々は外国人向けに書かれた書物です。この中で師は葉隠を紹介して次のように語っております。

この書はいつにても身命を捧げる武士の覚悟を極めて強調し、いかなる偉大な仕事も、狂気にならずしては、すなわち現代語で表現すれば、意識の普通の水準を破ってその下に横たわる隠れた力を解放するのでなければ、成就されたためしはないと述べている。この力は時として悪魔的(デビリシュ)であるかも知れぬが、超人間的であり、すばらしい働きをすることは疑えぬ。無意識状態が口を切られると、それは個人的の限度を超えて立ちのぼる。死はまったくその毒刺を失う。武士の修養が禅と提携するのはじつにこの点である。

英語版(このリンクは対訳版)ネットでも読めます)では以下の通りです。

The book emphasizes very much the samurai’s readiness to give his life away at any moment, for it states that no great work has ever been accomplished without going mad — that is, when expressed in modern terms, without breaking through the ordinary level of consciousness and letting loose the hidden powers lying further below. These powers may be devilish sometimes, but there is no doubt that they are superhuman and work wonders. When the
unconscious is tapped, it rises above individual limitations. Death now loses its sting altogether, and this is where the samurai training joins hands with Zen.

この言葉はジョブズの言葉「クレージーな人に乾杯」と相通ずるものがあります。岩波新書のこの本が出版されましたのは1940年という大昔で、同書が紹介いたしました禅の思想や、その他のインド思想が後の米国のヒッピー文化に大きな影響を与えております。そして、ジョブズはそのヒッピー文化を継承しております。つまるところ、ジョブズの言葉にうなづく日本人も多いのですが、元を辿ればわが国の禅の思想がその背景にはある、と私は考えております。

特に研究開発や起業においては、一旦グローバルスタンダードを忘れて、東洋思想に立ち返っても良いのではないでしょうか。

以前のブログでもご紹介した小熊英二著「単一民族神話の起源」によりますと、この書物が書かれました頃、和辻哲郎も東洋思想に立ち返るべきである旨を述べております。

本居と儒学者の対立を「『善悪の彼岸』と『普遍妥当の道徳』との対立」と表現した和辻は、中国文明の影響をのぞいた日本を求めた津田や、西洋近代の普遍主義の前に日本の独自性が危機にさらされていると考えた柳田と、同じ地点に立ったと推測される。形式道徳や普遍主義に対し、共同体の土着文化や自然な生を賞賛することは、柳田や津田にもみられたことであった。ただ、柳田は普遍主義の象徴を欧米(大陸)に、津田は形式道徳の象徴を中国に投影した。和辻の場合は、欧米と中国の双方にそれをみいだしたのである

政治の世界や大きな組織の運営を「善悪の彼岸」に持って行ってしまうことはできませんが、イノベーションの現場であれば、この程度のことは大いにやったらよろしい。まさにニーチェが主張する「ディオニュソス的であれ」を実践すべきではないかと考えております次第です。

続きはこちらです。