最近、美味しんぼの鼻血描写をめぐる騒ぎが広がっております。これもまた例によりまして過剰反応との印象が私にはあるのですが、特に政治の世界から物言いがつきますことは、あまり正常な姿ではありません。「子供が読むマンガに」などという言葉も聞かれましたが、スピリッツを読む子供にも相当な違和感があります。末恐ろしいといいますか、、、
もとよりマンガを含む創作物は、著作権法がいみじくも語っておりますように思想又は感情を創作的に表現したものであって真実を論理的に表現したものなどを求めることは最初から間違っております。そこに間違いが描かれており、それが社会的に害悪を及ぼすとしたら、その間違いを指摘して社会的な悪影響を防げばよいだけの話であって、作者を非難したり、社会的に処罰しようなどということは現代の人権思想とは相容れない思想であるといえるでしょう。
それにもかかわらず、あえてさまざまな非難糾弾の嵐となりましたことは、この問題に関して、少々特殊な事情があるからではなかろうか、などと私は邪推してしまいます。つまりは、すねに傷がある、やましい部分があるから異常な行動に走ってしまったのではなかろうか、ということなのですね。まあ、そう書きましてもご理解をいただくことは難しそうですので、以下簡単に私の思うところを書いておくことといたします。
まず第一に、風評被害がなぜ生じるかといいますと、放射能が怖いから。これは原発事故以来多くの人が持っている感情であり、美味しんぼが火をつけたわけではありません。それどころかアゴラのこの記事などを読んで「長崎には大量のプルトニウムが今なお存在する」などということを改めて知りますと、長崎産の食品も避けた方がよいか、などと考えてしまいます。実際、先日干物を買うときに産地をチェックしたのですが(現実問題として、福島産は避けているのですね。私は別になんとも思わないのですが、家庭内に気にする人がいる以上、如何ともいたしかねます)なんと「長崎産」とあり、しばし考え込んでしまいました。
この「怖い」という感覚は論理ではありません。タイトルに掲げましたことばは、かの名作アニメ「ああっ女神さまっ/小っちゃいって事は便利だねっ」の第17話 大雪原SOS・前編で語られている岩ちゃんのせりふなのですが、大いにうなづいてしまうせりふではあります。同様の状況は、スカイツリーなどの高所で床がガラス張りの床の部分に立ちますと、理屈では十分な強度があると分かっていても多くの人は怖いと感じるわけで、ホラー映画やお化け屋敷のような怖いという感覚をあえて味わおうという目的でならともかく、日常的にこんなことをしようなどと考える人はあまりいないと思います。
福島産の食品を怖いとする感情、これが事実に基づくものではないことは私も十分に理解しておりますが、そう思う人が少なからずいるのが現状で、この現状は変えていかなければいけません。他人の感情を変える等ということは難しいことであるように思われるかもしれませんが、多くの人が安全であると納得すれば怖いという感情も自然と下火になります。問題は、安全であると人々を納得させることが非常に難しい点にある、と私は考えております。
一般的には、信頼される専門家の言葉があれば多くの人は納得するのですが、こと原発関係となりますと、専門家が信頼されていない。なにぶん絶対安全であったはずの原発が事故を起こしたわけですし、その間違いがどこにあったのか、普通の人々が納得できるレベルまでは解明されておりません。多くの専門家とされる人々がさまざまな形で原発関連企業と癒着していたことも人々の知るところになってしまいました。原発は危ないと事故以前から指摘していた専門家の言うことであれば、少々信頼されるのかもしれませんが、そのような人達はアカデミズムの場からは排除され政治的な人々に接近してしまいました。医学関係の専門家も、「医は算術」などという言葉もありますように、今日ではさほど信頼される存在ではなくなっております。アカデミズム自体も製薬会社と癒着しているのではなかろうか、などと色眼鏡で見られる始末なのですね。
政治家に至っては、その言葉を信頼してもらえるなどと考えるのは、最初から野暮というものです。かつて「世間から信頼されない株屋」などと語った政治家がおられましたが、政治家も株屋もどんぐりの背比べ。「目くそ鼻くそを笑う」の実例の一つとして記憶にとどめておくべき言葉であるようにすら思えます。
風評被害を避けるために獲得すべき専門家の信頼のレベルは命を預けるに足る信頼度のレベル。これを獲得するのは並大抵のことではありません。特に、原発事故で一旦すべてが無に帰してしまっているのですから、マイナス百点からのスタートであることを全ての専門家が自覚しなくちゃいけません。
というわけで、まず必要なことは、関係者の信頼を取り戻すこと。ここで異様な形で美味しんぼをたたいておりますと、かえって下衆の勘繰りをされ、信頼性回復の努力は無に帰してしまいます。つまり「書かれるとまずいことがあるからつぶしにかかったのではなかろうか」などと多くの人が考えてしまいますと、福島産の食品は危険であるとの印象を強化してしまうのですね。
関係者がなすべきことは、おかしなかばい立てをせず、あくまで技術的な見地からの検証をしっかりおこなうこと、そしてこれを包み隠さず公開すること、食品の検査をきちんと行うこと、そうした上でおかしな論説には論説で対抗することです。それ以上の集団リンチ的印象を与える行為は厳に慎むこと。これが風評被害を終焉させるベストの道である、と私は考えております。マイナス百点から上に向かう道は、愚直に行動するしかありません。
それにしてもあの「厳格評価」はどこに行っちゃったんでしょうね。これをうやむやにして「世界一安全」などといっておりますと、誰にも政治家や専門家の言うことを信じてはもらえないでしょう。
大衆は結構賢い、これが真実なのですよ。
5/15: 一部修正しました。
5/19 追記:本日、この件に関します橋下市長の発言が流れておりました。橋下氏の発言を紹介した部分「自治体の抗議には『表現の自由』の観点から疑問視する声もあったが、橋下氏は『事実に基づいていないと言論で対抗したので問題ない。表現することは自由だが、違うことであれば公権力を使わずして言論できちんと抗議をする』と強調」に示された橋下氏の考え方はきわめて妥当であるように思います。
そもそも、不安はどうやれば取り除かれるのか。ポパー流には、安全であると納得させる、すなわち安全仮説を社会が受け入れるためには、不安を訴える主張(反証)を一つ一つ否定することによってのみ可能なのですね。
これを、風評被害がでるなどの理由で、不安を訴える声そのものを抑圧してしまいますと、反証可能性がなくなってしまい、安全仮説を社会が受け入れることができなくなってしまいます。つまり、いつまでたっても、多くの人は福島が危険であると考え続けることになってしまいます。
ところで、鼻血は被曝によるものであるか否かに関して、次の4つの命題がありえます。
A:福島におけるいかなる鼻血も被曝によるものではない(と、統計的に言える)
A’:福島における鼻血が被曝の影響であるとの統計的判断は得られていない
B:福島における鼻血の一部は被曝によるものである(と、統計的に言える)
B’:福島における鼻血が被曝の影響ではないとの統計的判断は得られていない
現在のところでは、Aが真であるとの結論には至っておらず、美味しんぼの鼻血描写に対する非難はA’を根拠として行われておりました。しかしながら、Aが成り立っていないならB’が真となりますので、A’とB’の双方が成立しているということなのでしょう。つまり、良くわかっていないのが現状である、と私は認識しております。
美味しんぼがBを主張するのは誤りであるといえるのですが、B’であることをもってBであることを心配するのは、心情として納得のいくところです。これを否定するためには、地道な健康調査を行っていくしかないように私には思われます。