これまで6回にわたりまして、卑弥呼の時代についていろいろ考えてまいりました。本日は、残りました最後の謎、箸墓古墳について考えてみたいと思います。
なお、これまでの関連記事は以下の通りです。
・姉子神社に思うこと(その1):欠史八代から崇神王に至る我が国の古代史に大胆な仮説を提供します。イクメイリヒコは記紀に記された垂仁王ではなく開化王であって、尾張氏の天火明命の6世孫であります建田勢命であること、迹迹日百襲姫は卑弥呼の後を継ぎました倭国の巫女「市(イチ)」(一般にはトヨといわれている)であることなどを解説いたしました。
・姉子神社に思うこと(その2):その1に統合しました。
・みてきたような邪馬台国の話:こちらもその1に統合しました。
・邪馬台国の人々(その1):魏志倭人伝に見る倭国の歴史を我が国の記録(記紀、伝承)と突き合わせ、登場人物の同定を行っております。
・邪馬台国の人々(その2):その1に統合しました。
・邪馬台国への東征:崇神王を、奴国王と同定しております。奴国王は、尾張と連携して、卑弥呼、イチの後を継いで倭国王となり、我が国の祭祀をつかさどる存在になったと推察しております。
また、箸墓古墳につきましては「磯城纏向の里で思うこと」と題する以前の記事でも扱っております。写真などはこちらの記事をご覧ください。本稿では、箸墓古墳に関して、その築造の経緯などについて解説いたします。
まず、箸墓古墳に関して日中双方の文献では、以下の記述が関連すると思われています。
日本書紀の崇神天皇の条に「乃葬於大市。故時人號其墓謂箸墓也、是墓者、日也人作、夜也神作、故運大坂山石而造、則自山至于墓、人民相踵、以手遞傳而運焉。」なる記述があります。ここに書かれておりますことは、迹々日百襲姬を大市という場所に葬ったこと、その死因(箸を女陰に刺して死んだこと)から箸墓と呼んだこと、昼は人が作り夜は神が作ったこと、大阪山の石を運ぶため山から墓まで人々が並んで手渡ししたこと、などです。昼は人が作り、夜は神が作るという記述から、非常な短時間で墓が作られたことがわかります。
三国志倭人条にも巨大墳墓の築造記事があり、「卑彌呼以死。大作冢。徑百餘歩、徇葬者奴婢百餘人」としております。径百余歩は今日の単位で145mに相当し、今日の箸墓古墳の円墳部の直径に相当いたします。これから、箸墓古墳は卑弥呼の墓ではないかとの推測もなされております。徇葬に関しては、わが国の古墳ではこのような風習は認められておらず、おそらくは、卑弥呼のあとを継いだ男王の時代に発生いたしました内乱の犠牲者を合葬したのではないかと私は考えております。なお、垂仁天皇の条に徇葬を止めさせたことが埴輪の起源である旨の記述がありますが、ここに描かれた徇葬の形は明らかに事実に反する上、埴輪の起源は吉備とすることが今日の考古学的定説であることから、垂仁天皇の条の埴輪の起源に関しては信じるに足りません。
箸墓古墳に関するこれまでの考古学的研究結果はこちらのページ(リンクが切れてしまいました)によく纏められております。この記述とこれに関連する考古学的議論は次のようになっております。
・築造年代は3世紀後半と推定される。C14年代測定法による西暦240~260年ごろの築造という報告もなされているが、この報告には異論がある。
・「卑彌呼以死」を、その前に記述された「狗奴国との戦の故に」卑弥呼が死んだと解釈して、築造年代を250年ごろとする見方もあるが、もっと遅い時期ではないかと、このページの作者pancho_de_ohsei氏は考えておられます。これは私の考えと一致し、「卑彌呼以死」は「大作冢」と一体で読むべきで、「卑弥呼が死んだので大いに冢(ちょう:塚の意)を造った」という意味の文章であると私は考えております。そうしないと、「大作冢」が何を言いたいのかさっぱりわからないことになりますので。
・箸墓古墳の後円部からは吉備式の埴輪(特殊器台)が、前方部からは尾張式の二重口縁壺形埴輪が発見されております。
・前方部と後円部のテラス(階段状の地形)の面が一致しないという謎があります。これに関して、前方部と後円部は築造年代が異なるため、地盤沈下の影響によりずれが発生したとする説も唱えられております。
これらを総合して、私は箸墓古墳に係わる経緯は次のようであったのではなかろうか、と考えております。
まず、箸墓古墳は巨大な古墳のさきがけとして築造されたのですが、卑弥呼にせよイチにせよ、当時の人々にとっては巫女に過ぎないわけですから、これだけ巨大な墳墓を造る理由がありません。巨大墳墓が造られたのは、「結果としてそうなった」ということだったのではなかろうか、と私は考えております。
そこで考えられますことが、卑弥呼存命中から宗教的な目的で三輪山のミニチュアである円形の山が人工的に築かれていた可能性です。この付近には、人工的な水路が種々掘られていたことがわかっており、この残土を一か所に盛り上げる形であれば、さほどの労力を追加せずにかなりの規模の山をつくることができます。
そして、卑弥呼が死去した際にその頂上部に卑弥呼を葬れば、張政はこれをみて卑弥呼の墓を「徑百餘歩」と形容することとなります。このとき、円墳の軸線は三輪山のほうを向いていたはずです。
次に、イチの死後、崇神天皇は卑弥呼の墳墓に接続する形で前方部を築造し、この部分にイチを埋葬した。このときの軸線は、なんと、彼の跡継ぎであります景行天皇の御所がありました桜井市穴師を向く形となっております(既に述べておりますように、垂仁天皇は不在とするのが私の考えですが、垂仁天皇の御所擬定地も同様の場所です。)
レーザ測量による箸墓古墳と西殿塚古墳の地形図によりますと、双方は似通った形をしているのですが、西殿塚古墳の前方部には方壇が設けられており、この部分に別の人物を埋葬した可能性も指摘されております。箸墓古墳の前方部の盛り上がりは、現在では明瞭ではないのですが、箸墓古墳の古い絵や写真を見ますと、前方部と後円部の双方に盛り上がりが認められ、箸墓古墳も二人の人物を埋葬した可能性を示唆いたします。
ともあれこの私の推定が正しいといたしますと、初代と二代目の倭国女王の墳墓は期せずして巨大なものとなってしまいます。こうなりますと、この後継者であります崇神天皇の墳墓も巨大なものとせざるを得ず、代々大和の地に巨大墳墓を築造する嚆矢となったこととなります。これら巨大墳墓の築造に費やされた経済資源の巨大さを考えますと、あるいは崇神天皇は、「しまった」と、後々反省されていたのかもしれません。
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