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官邸にドローン男出頭、さて

今朝の毎日新聞一面に「官邸にドローン男出頭」という見出しが踊っておりました。これをみれば、普通は男が官邸に出頭したと思いますよねえ。でもこれ、「官邸にドローン男」で一つの言葉なのですね。

この事件を巡っては、出頭した男と思しき人物のブログがいくつか公開されております。以下にリンクを張っておきますが、じきにリンク切れとなると思われますので、ご覧になりたい方はお早めにどうぞ。

第一の矢
ドローン規制
最終仕様
反省会
第2の矢
ヤスプレイ
グリフォン発見
100gの論理

これをみますと、いくつかの事実がわかってまいります。

まず、この方は「終活」をされていたということ。つまり死ぬ準備をしていたということなのですね。こういう人は、いうなれば無敵。この手の人物の犯罪行為は防止することが極めて困難でしょう。この手の人物が生まれないような社会を目指さなくてはいけません。

実は最近BLOGOSでも似たような記事を見つけて、コメントしておいたのですが、こちらの方は40になって夢から覚めて逃げ場のない現実に気づいたとしております。まだ危ない状況には至ってはいないように思われますが、ドローン男の記事をみまして、このお二方に通底するものがあるように感じられた次第。

それが何かにつきまして、なかなか言語化することが難しいのですが、これにつきましてこの先少しずつ書いてみようかと考えております。少々心もとない内容ではありますが、とりあえずドローン男の方のリンクが切れる前に、ここまで書きましたところだけでも公開いたします。


さて、ここにみられる問題は「生き難い」ということではないかと思うのですが、人間には本来生存本能があるはずで、全くの自然状態の人間であれば、環境ゆえに生存が脅かされることはあっても、自発的に生き難いなどという考えには至らないはずです。にもかかわらず生き難さを感じるのは社会的要因があるのではなかろうか、と考えております。

人は社会的な存在であるといわれるのですが、その基本はコミュニティ意識に根差しているのではないか、と私は考えております。コミュニティとは人間集団で、人はこの集団に帰属意識をもち、たがいに依存しあうとともに、自らの役割を見出して生活しております。そのコミュニティは、家族であり、職場や学校の仲間集団であり、地域社会であり、同好の士の集まりであったりも致します。

また、コミュニティというほどの密な結びつきではない、「疎なコミュニティ」とも呼ばれるべき集団もありまして、たとえば日本人であるとか、XX県出身者であるとか、XXの専門家であるとかといった人の属性にも、コミュニティとほぼ同様の帰属意識がありますし、依存意識や役割意識も、さほど強くはない漠たる形ではあるかもしれませんが、ないわけでもありません。

で、この役割意識を人々が意識するのが「パーソナリティ」ということになります。この言葉は、「ペルソナ(仮面)」を語源としておりまして、人々はこの社会で生きていくうえで、仮面をつけて役割を演じている、というのですね。これはある場合には、よき父、よき妻、優秀な技術者、辣腕の官僚などなどでもありまして、その仮面を自らが演じ切っているという自信、そしてそれを人々が認めているという自覚が、自らが社会で生きていくうえでの自信を与えてくれるわけです。

ところがある日これが不確かなものとなりますと、生きていく自信を失う、生き難さを実感するようになる、というのが上にあげました人々が共通に持っている問題なのではなかろうか、と私は考えております。

同じような問題をかつては抱えていたような背景がうかがえるのがこれもBLOGOSのうさみのりや氏のエントリでして、こちらは役所を辞めて途方に暮れるという、わかりやすい状況がかつてはあったわけです。

でも、パーソナリティなどというものは、自分自身が考えているほど他の人々が重視しているわけでもない、今の仮面が使いにくい仮面であるならば、新しい仮面に取り換えればよいだけの話なのですね。古い仮面を捨てきれない執着心なり、新しい仮面に思い至らない未熟さなりが、この生き難さを極端な場合には死に至る病にまで深刻化させてしまっているように私には思われます。

ぼろぼろになった仮面など、どうでもよいではないか、と私は思うのですね。そんなものはさっさと脱ぎ捨て、すっぴんで生きたってどうということはありません。少なくとも、そんな仮面が生き難さを作り出しているのであれば、さっさと捨て去るべきもの。過去にこだわって生きていたってろくなことはありません。それほど大事にしなくちゃいけない過去なのでしょうか、私にはこのあたりが大いに疑問であるように思われた次第です。