以前よりこのブログでは米澤穂信を読んでまいりましたが、その後も、ここでご紹介はしていないのですが、新しいものが出るたびに読んでおります。最近出ました王とサーカスは、このブログで最近議論いたしました話題とも重なる点がありますので、ちょっとだけ、ご紹介しておきます。
同書は、さよなら妖精の後日談といったところで、フリージャーナリストとなりました大刀洗万智が、旅のルポを書こうと訪れましたネパールで、王家一家惨殺事件に出合い、これを取材する過程で自分自身の身の回りに起こりました事件の真相を推理する、というお話です。
同氏の最近の作品「リカーシブル」にも共通するのですが、最近の米澤穂信氏のミステリーは、独特の雰囲気を楽しむといった色合いが強く、たしかにトリックは仕掛けられてはいるのですが、ミステリーとしては意外感に乏しい反面少々無理があるような印象を受けます。とはいっても、駄作というわけではなく、雰囲気の部分が十分に堪能できますので、読んで損をした気にはならない良い作品であるということはできるでしょう。
で、「王とサーカス」ですが、語り部の大刀洗万智は、現地の軍人に、「サーカスで起きた事故のニュースを人々は娯楽として鑑賞する。この国で起きた悲惨な事件を伝えるニュースも同じなのではないか」として嫌悪感を抱かれるのですね。で、メディアの矜持という重たいテーマに向かいます。
ここで、ちょっと長くなりますが、大事な部分を引用しておきましょう。取材した人物が事件に巻き込まれるという困った状況下で、大刀洗は考え込むのですね。
「『ハゲワシと少女』になりそう」
報道写真に与えられる最高の名誉、ピューリッツァー賞を得た写真のことを連想する。
一九九三年、内戦が続くスーダンで、報道写真家ケビン・カーターは一人の少女を発見した。四肢は痩せ衰え、栄養失調で腹ばかりがふくらんだ少女が、乾いた大地にしゃがみ込んでいる。その数メートル後ろでは、地面に下りた一羽のハゲワシが少女の方を向いている。
写っているものは、それで全てだ。けれどこの写真は強い連想を呼び起こす。ハゲワシはなぜそこにいて、しゃがみ込む少女を見ているのか。……間もなく命尽きる少女を餌食にするためだ。飢餓ゆえに人間が死に、鳥がそれを食おうとしている。
この写真は、その内包するメッセージの強さゆえにピューリッツァー賞を得た。しかし写真家は賞賛だけでなく、大きな非難にも晒された。「なぜ」と批判者は言った。「なぜ、少女を助けなかったのか? その場にいながらあなたはただそれを撮るだけで、死のうとしている少女のためには何もしなかったのか?」
写真家は反論した。そうではない。見殺しにしたわけではない。私は、少女が自力で立ち上がって配給所へと歩き出すのを確かめてから、その場を立ち去ったのだ、と。しかし、少女の無事を見届けるカメラマンを撮った写真はない。
疑問と非難の中、ピューリッツァー賞受賞者ケビン・カーターは、自らの命を絶った。
「ハゲワシと少女」は、ジャーナリズムに根本的な問いを突きつけた。この世の悲惨を伝えるということは、その場に立ち会っていたということだ。なぜ助けなかったのだ。おまえは何をしていたのだ――。
根拠のない問いではある。記者が写真を撮ったからといって、何もしなかった証明にはならない。悲惨に対して力を尽くし、彼にできることは全てやった上で、最後にシャッターを切ったのかもしれない。もしかしたら彼自身も食糧が尽き、飢えに苦しみながら撮ったのかもしれない。しかし写真は、連想を抱くことはあっても真実を伝えることはない。そこにハゲワシと少女が写っているのなら、ハゲワシが少女を狙っているあいだ写真家は何もしなかったという連想を抱くものなのだ。
このお話、少し前のこのブログでの芭蕉の「猿を聞人(きくひと)捨子に秋の風いかに」と、これに対するドナルドキーンの反応を彷彿とさせます。と、いうよりは、キーン氏は、上の「ハゲワシと少女」の話を念頭に芭蕉を評論していたような印象を受けました。
で、ハゲワシと少女ですが、今であればさしずめブログ炎上といったこの騒動、渦中のケビン・カーター氏は如何にすべきであったかということが一つの問題となります。
私が思うには、カーター氏はカメラマンであり、写真を撮ることが彼の使命である、ということですね。もちろん、この少女の危機的状況が、たまたま一人だけ、一回だけの問題であるならばこれを救うことも当然なのですが、当時のスーダンの状況が、飢えや戦乱で多くの人々が死んでいるような状況であれば、ここで一人の少女を救ってどうなるものでもない、ここで救ったところでこの先どうなるかも知れたものではない、とカーター氏が考えることは当然であるといえるでしょう。
最近のニュースでも伝えておりました。押し寄せた難民に対するヨーロッパの対応が、溺死した少年の写真を目にしたために、ころりと変わったことがあったのですね。この写真一枚で、どれほどの人が救われたか、考えてみる必要があるでしょう。
カーター氏がまさになすべきことは、この悲惨な状況を広く世界に伝えること。それを彼はまさに行いました。スーダンから帰国して、安全な社会に戻ったところで、彼はこれを人々に正しく伝えなくてはいけません。上の引用部を読みますと、言い訳じみたことを口にしてしまった。これが彼の大失敗であったように私には思われます。
さて、王とサーカスのお話の中で、大刀洗万智は王宮前で群衆と警官隊が衝突するという、ジャーナリストにとりましては千載一遇の機会に遭遇いたします。もちろんカメラもしっかり持っていたのですが、群衆の中で騒乱に巻き込まれ、ロクな写真が撮れません。
ここは作戦の失敗といったところ。まずは撮影ポイントをしっかりと押さえることが必要でした。群衆の中に入っては、最初からロクな写真が撮れるわけもありません。そして、長焦点の望遠までカバーするズームレンズを備えたカメラを準備しておくこと。プロのカメラマンが機材にこだわるのは何もかっこをつけているだけのことではないのですね。いつ出会うかわからないシャッターチャンスをものにするため、それ相応の機材というものも準備しておかなくてはいけません。
とはいえ、旅行ルポという軟弱な取材にそこまで期待するのは、どだい無理、というものかもしれないのですが、、、
で、肝心のミステリーの部分ですが、これは読んでのお楽しみ、ということにしておきましょう。