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Subject(主体)について

時々見ておりますMechaAG氏のブログ「『subject』は『主』か『従』か」と題する面白いエントリーがありましたので、これについて、ちょっと考えてみましょう。

[従属するもの=主体]の論理

ここで問題視されているのは、subjectの本来の意味が「従属するもの」であるにもかかわらず、「主体」という意味に使われている、という点です。

確かにこの疑問はもっともではあるのですが、田中真紀子流の物言いを思い出せば、従属するものが主体となることもあり得ると納得できるのではないでしょうか。

つまり、田中真紀子氏の人物に対する三分法は、「家族」、「使用人」、「」なのですね。この「使用人」がつまりはsubjectであり、「」がobjectに相当致します。

主人はもとより家族も手を動かさない。からだを動かして仕事をするのは全部使用人というのは、相当な大金持ち限定の話ではないか、とも思われてしまいそうですが、私とはつまるところ私の霊魂であり、私の身体も霊魂にとっては使用人と同様、自らに従属する存在なのですね。

私の魂に従属するものが為したことは私が為したことに他ならない。だからsubjectは主体・主語という意味になる。なるほど、こういう理屈なら納得できそうです。

ひょっとすると、語源的には逆かもしれません。つまり、私の主体とは私の魂とこれに従属するものをいう。だからsubjectに「従属するもの」という意味合いが付け加わった、である可能性もありそうで、しかも、こちらの可能性の方が高そうです。

木田元氏の指摘

subjectとobjectという言葉は、主観と客観という意味もあるのですが、このブログの以前のエントリー「木田元著「ハイデガー『存在と時間』の構築」の指摘する誤訳」に書きましたように、この用語と意味の対応関係は、デカルト以前とカント以後で入れ替わっております。

デカルト以前の哲学書を読む際には、主観と客観の意味を、今日の主観と客観に対応する形に正しく翻訳しているかどうか、一応確認してかかる必要があります。

前回のエントリーから、問題の部分を再録すれば、以下のようになります。

木田元氏が指摘する重要な問題は、デカルト以前のオプイエクト(オブジェクト)は心に投射された外界の姿を意味し、外界にある実在は、実体・実質の意味で、ズプイエクト(サブジェクト)と呼んでいたという点です。カント以後は対応関係が逆転しますので、デカルト以前のこれらの言葉を今日と同じ形に、ズプイエクト=主観・オプイエクト=客観と翻訳したのでは、意味を取り違えてしまいます。

この部分、木田氏の記述では以下の通りです。

これは、先ほどもふれたように、デカルトからカントにいたる間に、<Objekt(オプイエクト)>という言葉、それと同時に<Subjekt(ズプイエクト)>という言葉の意味が変わったからである。<subiectum(スブイエクトゥム)>というラテン語は、アリストテレスの用語<ヒポケイメノン(基体)>の訳語として造られ、中世から近世初頭までもっぱらその意味で使われていた。<基体>というのは、それ自体で自存している存在者のことであり、近代的な意味でならどちらかといえば客観的な存在者に近い。<obiectum(オブイエクトゥム)>もアリストテレスの用語<アンチケイメノン>の訳語として作られ、スコラの時代には、心に投射(オブイエクテレ)された事物の姿、つまり観念のようなものを意味していた。アリストテレスにおける<ヒポケイメノン>と<アンチケイメノン>、スコラにおける<subjectum(スブイエクトゥム)>と<objectum(オブイエクトゥム)>は別に対を成していたわけではないのだが、それが18世紀、カントの時代に、意味を逆転した上で対にされ、<Subjekt(ズプイエクト)>が<主観>、<Objekt(オプイエクト)>が<客観>を意味するようになった。……

まあ、このあたりの厳密な議論はカント以後に主になされておりますので、木田氏の指摘するような大きな問題はあまり生じないようにも思えるのですが、デカルト以前の哲学書を読んで意味の通り難い部分に出合った場合には、この誤訳を疑うのが良いかもしれません。

実体を意味するsub

subという言葉は、ラテン語で英語のunder(下の)を意味する言葉で、リーダーの下のサブリーダーなど、メインに対応するサブといった意味でも使われているのですが、現れたものの下にある、実質・実体という意味にも使われております。たとえばsubstanceなどですね。

subjectという言葉の哲学的意味(客観になったり主観になったりする)は、どちらかといえば、「副」なり「下位」というよりは、「実体」という意味合いが強いように私には思われます。

subjectの反対であるobjectについておりますobには、「向かう」という意味があり、移動方向(to)を示したり、敵対する意味(against)が加わります。また、subの反対のoverという意味もあります。

object, subjectで共通するjectは、ラテン語で「投げる、シュートする」を意味するjacereの過去分詞であり、木田氏の書かれた通り、objectで投射という意味になります。でもsubjectは? subだけで充分であるようにも思えますが、一応、subjectで「実体」という意味になります。

プラトンの実体とカントの実体

ギリシャの時代には、彫像の実体(subject)は大理石であるとする一方で、その形が心に投射する概念(object)が彫像の本質であるとする見方が有力でした。アポロンの大理石像は、大理石であることよりも、アポロンであることが重視されるのですね。

たとえばプラトンは、彫像があらわしている概念(たとえばアポロンの姿なり球体)をイデアと呼んで重視しております。(弟子のアリストテレスは、後に、質料(素材)と形相(姿形)を対等に扱うようになるのですが。)

ところが物理学が発達したニュートンの時代よりも後には、物質こそが本質であり、形などは副次的のものであるように考えられております。

まあ、コミック本を買う人は、まさか、インクの付着したセルロースの束を購入したなどとは思わず、そこに書かれた漫画こそがコミック本の本質と考えているわけで、プラトンの主張が現代に通じていないわけではないのですが、、、

カントは、ニュートン以後の哲学者なのですが、人はモノ自体を知りえず、ただ自らの精神内に現れた表象を知るのみであると主張いたします。

そうなりますと、精神内に現れた表象が実体(subject)であり、これを(想像上の)外的世界に投射したもの(object)をオブジェクトとするのがカント的世界観ということになります。

人と関わりなく人間精神の外部にある存在を、今日一般に「客観・客体」と呼んでいるのですが、その呼び名は、ギリシャ時代にはsubject、カント以降ではobjectとなります。そして、人間精神の内部に現れる存在(主観)は、ギリシャ時代にはobject、カント以降ではsubjectと呼ばれている。

そしてこれらの用語が時に混同して用いられている、これが以前のブログでご紹介しました木田元氏の指摘です。

サブジェクトとオブジェクトの入れ替わり

科学者にとりましては、外的世界に投影されたオブジェクトこそが、研究の対象である「世界の事実」、ないしは「客観・客体」ということになるのですが、当然のごとくこれを実体と考える。ギリシャ時代と同じように考えるわけですね。

ここにカントの思想との齟齬が生じます。カントが反転させたサブジェクトとオブジェクトを、呼び名はカントに従って反転する一方で、カントの世界観は受け入れずに元のままとしている。こうなりますと、単にsubjectとobjectの指すものが入れ替わるだけではなく、subjectの指す対象までもが(存在するモノから、存在を認識する主体へと)変わってしまいます。

さらに、ギリシャの時代には、外界の事物が心に投射した概念(object)が重視される一方で、近代的な自然科学は、人が認識する表象よりも、これを(各人が想像する)外的世界に投射した概念(object)を重視する。どちらも重視されるものはobjectで一致しているのですね。

この双方は、objectのありかは異なりますが、重視されるものは昔も今もobjectで変わりがなく、人々に受け入れやすい考え方でもあります。これが今日の科学哲学の主流の考え方である「自然主義的態度」なのですが、カント哲学とは正反対の立場です。

このあたりに、今日の科学をめぐる哲学的基礎付けが相当に混乱している状況を見て取れるように、私には思われます。


いくつか用語を修正しております。引用の際には、なるべく新しいバージョンをご利用ください。