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“対論「炎上」日本のメカニズム”を読む

本日は、佐藤健志氏と藤井聡氏の共著“対論 「炎上」日本のメカニズム”を読むことといたしましょう。

炎上と私のかかわり

実は私、ネットの喧嘩(つまりは炎上)を研究することで学位を得ておりまして、こんな書物が出ていたら、のぞいてみないわけにも参りません。

なお、この研究に関しては、固定ページ「悲しきネット」をごらんください。一番下には修士論文と学位論文のPDFを置いております。その上にあるものは、学位論文のわかりやすい部分をhtmlバージョンで置いています。

ちなみに、修士論文は、電子掲示板上の議論の発展をブランチングプロセスとして解析し、そのモデルのパラメータからコミュニケーションの場の特性を分析したものです。

学位論文()は、キーワードの自動抽出、多変量解析、周波数分析などの手法を駆使して、メッセージの内容を機械的に分析することで、その場に生じている対立の有無と対立内容を分析するものでした。

同書の構成

本題に戻ります。著者の佐藤健志氏は劇作家で映画などのはやりものに詳しい一方で、日本文化論なども評論されております。藤井聡氏は心理学と公共政策を専門とされる方で、佐藤氏は保守派、藤井氏も政府の参与を務めたりされておりますので、一応、安心して読むことができる書物ではあります。

同書は7章建てで、章のタイトルは次のようになっております。鍵カッコ内は分担された方をイニシャルで示しております。

第1章:現代の「炎上」の基本メカニズム[F]

第2章:ジャン・アヌイの作劇に見る炎上の魅惑と詐術[S]

第3章:炎上における「隠蔽」の構造[F}

第4章:炎上にひそむ「知性のめまい」を探る[S}

第5章:炎上のメカニズムへの挑戦[F]

第6章:仮相と炎上の戦後史[S]

第7章:対談 炎上はコントロールできるのか[F & S]

第1章:現代の「炎上」の基本メカニズム

この短い章では、バイト先のパイ生地を顔に貼り付けた写真を公開して炎上させた例などをあげ、炎上は火事が燃え広がるようなものである、と語られております。

私は大昔、Junetという学術ネットワーク上のfjというニュースグループで議論をしていたのですが、そこでも時々炎上することがありまして、「火事と喧嘩はfjの華」などと言っていた方もおられました。

今ならさしずめ「火事と喧嘩はNetの華」といったところでしょうか。Netの方が語感は江戸に近いし、こちらの方がしっくりきます。

その当時から、計算機ネットワークを介したコミュニケーションはいずれ世界的に拡大するとの予想がなされており、円滑なコミュニケーションは一つの課題となると予想されました。

そこにある種のチャンスあり、と私はにらんだのですね。で、どうせならMBAももらってやろうと、経営学のコースでネットワークコミュニケーションの研究を始めたわけです。

炎上は、ブランチング・プロセス(分枝過程)という数理モデルで記述することができます。核分裂や伝染病の伝搬、あるいは新製品の普及なども同じ数理モデルがあてはまります。

このモデルのパラメータによって炎上のしやすさが決まり、統計データからパラメータを推定することにより、コミュニケーションの場の炎上のしやすさを判定することができます。

簡単に言えば、人々の興味の対象がばらけているときは炎上しにくいということで、今日では、社会の話題が一つに集中しがちであるため炎上しやすい、という傾向にあるのでしょう。

マスコミは、炎上させてなんぼ、という面もありますので、特定の話題を取り上げるときにはそればかりを取り上げる。で、うまく当たれば炎上する、というメカニズムになっているのでしょうね。あ、これはちょっと先走りかもしれんせん。

第2章:ジャン・アヌイの作劇に見る炎上の魅惑と詐術

アヌイの作劇とは、両極端の人物を登場させて、この間の対立を扱う演劇の手法でして、普通に考えれば双方の間に合理的な生き方があるのですが、両極端が「共感」を得やすいと、佐藤氏は次のように書きます。

純粋主義や現実主義の姿勢は、誰にとってもなじみ深い。しかし純粋主義であれ現実主義であれ、とことん突き詰めたがる人物はめったに存在しない。現実に抵抗しつつも手を汚し、手を汚しつつも純粋さにあこがれるのが、ほとんどの人間のあり方なのだ。

しかるにアヌイは、「純粋主義を突き詰めたがる人物」と「現実主義を突き詰めたがる人物」ばかりの世界を作り出す。この世界は、どちらに転んでも共感しやすい点で「なじみ深い」印象を与えるが、めったに存在しない人物しか登場しないのだからリアルではない。再び詐術的手法が行使されているのである。

まあ、マスコミも、極端な人間が大好きです。籠池さんとか、、、

そして、極端な人物を出してくれば視聴率が上がる。だから、テレビの番組には極端な(キャラの立った)人間しか出てこない、ということなのかもしれませんね。

マスコミに登場する評論家をあまり馬鹿にしてはいけないのかもしれません。そういう人しかマスコミは出さない。だから評論家は敢えてそういうキャラを演じている、という事情もありそうですので、、、

第3章:炎上における「隠蔽」の構造

この章では、豊洲市場への移転問題が一つのテーマとして扱われます。大した問題ではなかったのに、大問題となり、巨額の経費が無駄に使われてしまったのですね。

とはいえ、民主主義の世界では、有権者を納得させる必要があります。正しい情報を伝えない「隠蔽」などがなされますと大問題になる、炎上してしまう、ということでしょう。

第4章:炎上にひそむ「知性のめまい」を探る

知性のめまいとは、世の中が思い通りにならない現実を受け入れられない、という現象で、89ページから90ページに書かれていることは、ひょっとすると、今の韓国社会を覆っている、集団めまい現象なのではないか、などという気にもさせます。ちょっと引用しておきましょう。

(1) 私は物事が素晴らしくなければいけないと信じるし、実際に素晴らしい状態になるとも信じる。

(2) 私は物事が素晴らしい状態ではないと分かっているし、「物事は素晴らしい状態になる」という信念が、そもそも錯覚だったかもしれないとも認める。

(3) 物事が素晴らしい状態ではないと分かっており、「物事は素晴らしい状態になる」という信念が、そもそも錯覚だったかも知れないと認めるからこそ、私は物事が素晴らしい状態になると信じる。

(4) ここに矛盾があることを私は認めない。

演劇なら面白いかもしれませんが、隣人にこんな人がいたら、全く困ってしまいます。どうしましょう、、、

第5章:炎上のメカニズムへの挑戦

この章は大阪都構想に対する批判で、この構想も豊洲市場の問題と同様、全く意味のない話であったとしているのですが、これは少々行き過ぎであるような気がいたします。

まあ、自民党よいしょ、ということでしょうか。ここは大目に見ておきますか、、、

第6章:仮相と炎上の戦後史

この本では、オリンピックやアニメ「君の名は。」のフィーバーぶりも「炎上」と呼んでいるのですが、まあ、こういう炎上ならもう少し肯定的な表現もありそうですね。いずれにせよ、そういうくくりで、戦後の「炎上」を概観します。

もちろん、数理モデルで言うなら、流行も伝染病も、同じブランチング・プロセスですし、一般的な物言いでも「流行」は「流行り病」とも表現され、似た扱いがなされています。

ここは、「腐敗」と「発酵」(実際には両者同じ現象で、有害か有益かが違うだけ)のような言葉の使い分けが欲しいところです。

う~ん、、、、「炎上」に対して「萌え上がり」はだめですねえ、、、「盛り上がり」あたりかな? 実際、祭りは良く盛り上がりますからね。

あ、「祭り」かな、肯定的イメージの言葉は、、、(実際には「炎上」の意味で使われているが。)

第7章:対談 炎上はコントロールできるのか

最後の章では、「良い炎上」と「悪い炎上」などということが語られます。でも、この対談のこの部分、少々おかしいですね。

佐藤:一般論、ないし基本原則としては「良い炎上は肯定・協力・統合の性格を持ち、公益を増進する。「悪い炎上」は否定・分断・排除の性格を持ち、公益を毀損する」と区分して構わないでしょう。とはいえ結果が反対になる可能性も、決して無視することはできません。

藤井:仰る通りです。ついてはそれを考える一つの論点として大きな話をすると、私は、よい炎上は「理性」によるもので、悪い炎上とは「悟性」によるもの、そんな理解をしています。

理性は英語ではリーズン(reason)、悟性はインテレクト(intellect)になるようですが、ザックリ言えば、ダイナミックに大局を理解する力が理性、理屈だけの整合性を考えるような力が悟性と思っていいでしょう。...

悟性とは耳慣れない言葉ですから少し補足すると、例えば新自由主義者のような、今はやりの経済学者たちなどは、まさに悟性の人、理屈だけそろっていればそれでよくて、自分の論理と現実社会の対応関係について頓着しない人たちです。一方、理性の人というと、これがなかなかいないのですが(笑)たとえばソクラテスやプラトンが理想としたような哲人がそれにあたる。これについては、後でも述べようと思います。

理性がリーズンはまあよいですけど、悟性は英語で言えばアンダースタンディングが、特にカントの場合には、適切だと思います。

最近、と言いましても数年前なのですが、カントの純粋理性批判の新しい訳で、カントの用語“Verstand”を「知性」と訳しているものがあり、違和感を感じたことがあります。

これを単純に英訳するとインテレクトになる。これはしかし、理性と悟性を合わせた知性という意味に解釈されてしまいそうです。ここはやはり、悟性は悟性、理性は理性、双方を合わせたものを知性と呼ぶのが良いのではないかと思います。

“Verstand”の三つの意味

実は、ドイツ語の“Verstand”に対応する主な英単語には、マインド、アンダースタンディング、インテレクトの三とおりがあり、それぞれを日本語に訳すと、「心」、「理解力」、「知性」ということになります。

カントは「純粋理性批判」で、“Verstand”を理性の対立概念として扱い、知覚された対象をカテゴライズしたり、繰り返された理性の判断を自動的に処理する能力として扱っております。

こういう意味であれば、この用語はアンダースタンディングと解釈するのが妥当と思われ、この直訳の「理解力」では少々しっくりきませんので、西周氏に従い「悟性」の用語を用いるのが妥当ではないかと思います。

藤井氏は、「理性」の対立概念として「インテレクト(知性)」を語っておられますが、理性の対立概念であるならば、「インテレクト(知性)」というよりは「感性」に近い把握のされ方をされているように見えます。しかし、実際のところでは、「インテレクト(知性)」こそが「感性」の対立概念なのですね。(12/20:修正しました。)

そして、「インテレクト(知性)」の中に「理性」と「アンダースタンディング:悟性」がある。自由度が高く過去未来にも思いをはせることができるけれど効率の悪く、かつ概念化されたものしか処理できない「理性」と、繰り返しの動作で獲得される反射的な知性で、知覚情報をカテゴライズすることができる「アンダースタンディング:悟性」があるわけですね。

そして、カントが「純粋理性批判」で批判したのは、表題にある通り「理性」であり、理性に代わりこれを補佐するものとしての「アンダースタンディング:悟性」の働きに一定の光を投げかけていると、私は解釈しております。

理性と悟性と感性

用語の問題はわきに置くといたしましても、問題は、知性なり悟性なりが炎上の原因になるか、といえば、私の見たところではそれはNoです。

人の精神的機能(脳内で行われている情報処理の形態)には3通りある。「理性」、「悟性」、「感性」の三つですね。

ここで、理性は言語的、論理的な情報処理能力で、一般に意識の中で行われ、未経験の事態にも対応できるし、過去や未来に思いを巡らすこともできる、人間特有の能力です。問題は、一度に一つのことしか考えられず、一般に処理速度が遅いことが欠点といえそうです。

悟性は、無意識的、反射的な知性の働きで、理性と似た処理が瞬時に行われるという特徴があります。言語に対する反応のように、理性で何度も同じ処理をしていると、考えなくてもイメージがわくようになる。体で覚える、という言葉で形容されるような知恵の使い方です。

悟性のもう一つ重要な役割に、言語以前の感覚をカテゴライズし、言語を与えるという働きがあります。言語的、論理的な処理の問題は、出発点を与える必要があるということ。言語的、論理的な情報処理に先立って、論理で処理できる形の命題を与える必要があるのですね。

とはいえ、悟性にも欠点があり、リアルタイムの処理しかできないこと、すでに何度も経験したことしかできないことが難点です。トライ・アンド・エラーというやり方なら、経験したことがない問題にも対処できなくはないのですけど、これは非常に効率の悪いやり方です。

最後の感性は、論理性が欠如している。でも、感性は感性で重要なのであって、例えば気持ちのよさ、心地よさを追求するのは、人間として当然であると言えるでしょう。そしてこれらは論理性では語れない。

藤井氏の議論の問題

上の藤井氏の議論は、新自由主義に対する反感に駆られた「感性的」発言であって、言語・論理に正しく基づいた「理性的」発言ではない、との印象を私は受けました。

実は、理性の段階で行われる脳内の情報処理は意識された形で行われるのですが、感性、悟性はいずれも無意識のうちに、反射的に行われる。そして、その思考様式のあるものは、人間(ヒト)という種が本来的に持っているものもあるのでしょうが、生まれ育った過程で生成された部分もあるのですね。

このような考え方はレヴィ・ストロースに始まる構造主義が指摘するもので、この結果、人間社会には様々な異なる価値観を持った人々の集団ができてしまう。

中には国家レベルで国民をマインドコントロールする社会も現れ、これが人類社会に様々な害悪を及ぼすというのがこれまでの人類の歴史でした。

国家レベルまで大げさな話でなくとも、所属組織や職業上の立場に対する配慮から特定の考え方を支持しているうちに、特定の考え方を無意識的にするようになることは、現代社会の中でもしばしばみられる現象です。

そして、言語化されない論理で判断がなされてしまうと、対立は対話で解決することができない。

悟性はまだしも論理に結び付く可能性があるのですが、感性的な議論ではこれが難しい。感性的なコミュニケーションは気を付けて行わなくてはいけないというのが、これから得られる教訓なのですね。

その一方で、そのようなマインド・コントロールを正当化するものは、ある種の理想、イデオロギーであり、これを生み出しているのは理性である、という複雑な状況にもあります。

理性が論理を追求しつつ、その伝達に際しては論理を外したコミュニケーションがなされる、これは十分に注意しなくてはいけません。アヌイの作劇に見られる対立がそこに始まっているのですね。

藤井氏も、そういう意味では、炎上の要因を持っているように思われました。

知性の三要素と炎上

以前のブログで知性の三要素について議論いたしました。まとめると、以下のようになります。

天才=創造性=悟性=芸術家= ART =発想力=ディオニュソス的なるもの
秀才=再現性=理性=研究者=LOGIC =論理力=ソクラテス的なるもの
凡人=共感性=感性=勝負師=MARKET=表現力=アポロン的なるもの

炎上を起こすのは、共感性で動く凡人の感性的対応なのですね。そしてこの共感性は、以前のブログ「ポール・ブルーム著「反共感論/社会はいかに判断を誤るか」を読む」でも書きましたように、合理的ではないし、効率的でもないし、害が大きい場合もある。

でも、現代社会は民主主義なのですから、いくら非効率であるといっても、大多数の凡人の意見を無視するわけにはいかない。

だから結局のところ、それがいくら無駄遣いであろうとも、都民の納得が得られないなら、築地の豊洲移転は延期するしかないのですね。

もちろん、リーダー的な人物に要求されることは、社会を良い方向に導くことなのであって、民衆がバカだからどうしようもないなどと言っていたのではリーダー失格。そういう環境下でベストのソリューションを得ていくしかないのですね。

そういう意味では、橋本氏にせよ、小池氏にせよ、まあまあの成果は上げておられるのではないかと思いますよ。少なくとも、前に進んでいますからね。