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天才を殺す凡人と、これからの経営

北野唯我氏のブログ『週報』に面白い記事がありましたのでご紹介します。題しまして「凡人が、天才を殺すことがある理由。ーどう社会から「天才」を守るか?」です。

知性の三要素と天才・秀才・凡人

以前、知性の三要素についてこのブログでも触れました。その時は、三要素を次のようにご紹介しました。

理性=研究者=LOGIC =論理力=ソクラテス的なるもの
悟性=芸術家= ART =発想力=ディオニュソス的なるもの
感性=勝負師=MARKET=表現力=アポロン的なるもの

北野氏のエントリーも、非常に似た概念が紹介されています。凡人が天才を殺す、というシチュエーションに、「凡人」、「天才」以外の第三の立場として「秀才」を持ってきまして、この三者の対立関係としてこの現象を説明するのですが、この三者のよって立つ能力が次のように語られています。

天才=創造性
秀才=再現性≒論理性
凡人=共感性

この三つを並べた後、北野氏は次のように語ります。

天才は「創造性」という軸で、ものごとを評価する。対して、秀才は「再現性(≒ロジック)」、凡人は「共感性」で評価する。

より具体的にいうと、天才は「世界を良くするという意味で、創造的か」で評価をとる。一方で、凡人は「その人や考えが、共感できるか」で評価をとる。

したがって、天才と凡人は「軸」が根本的に異なる。

本来であればこの「軸」に優劣はない。だが、問題は「人数の差」である。人間の数は、凡人>>>>>>>天才である、数百万倍近い差がある。したがって、凡人がその気になれば、天才を殺すことは極めて簡単なのである。

なるほど、ネットで炎上するのは、凡人が大騒ぎするから、ということであるのかもしれません。共感力があるだけに、似た考えを持つ人が多数存在し、彼らが一斉に書き込むことで、収拾のつかない騒ぎになるのですね。

前回の三つの分類をこれに接続しますと次のようになります。なお、再現性の代わりに論理性を用いることとします。

天才=創造性=悟性=芸術家= ART =発想力=ディオニュソス的なるもの
秀才=論理性=理性=研究者=LOGIC =論理力=ソクラテス的なるもの
凡人=共感性=感性=勝負師=MARKET=表現力=アポロン的なるもの


3/9追記:秀才は、再現性の方が良いかもしれませんね。その場合は、次のようになります。

天才=創造性=悟性=芸術家= ART =発想力=ディオニュソス的なるもの
秀才=再現性=理性=研究者=LOGIC =論理力=ソクラテス的なるもの
凡人=共感性=感性=勝負師=MARKET=表現力=アポロン的なるもの

天才・秀才・凡人とビジネス

ここで、微妙な妥当性を見せているのが「凡人」の共感性がMARKETにつながること。つまりは、数に訴えなければ市場は押さえられないのですね。いくらそれが優れているといっても、先を行き過ぎては、商売にはなりません。

北野氏は、天才が新たなものを創造し、秀才がこれを事業化し、凡人がこれでお金をつくることでビジネスが回るのだが、天才の評価指標がないことが問題である、と述べておられます。で、その評価軸として凡人の反発の量を使えばよいのではないかと提案されているのですが、これはどうでしょう。

たしかにわかりやすいものであるなら、凡人の反感が一つの指標になるかもしれないのですが、凡人には理解しがたい創造物だってあるのですね。アインシュタインが天才だとして、果たしてこれに反発できる凡人がどれほどいたかを考えれば、この提案には首をかしげざるを得ません。

もっとも、アインシュタインぐらいになりますと、この発想がビジネスにどう結びつくのか、これも相当にむずかしい話ですから、凡人の反感を買う程度の天才が、ビジネスにはちょうど良いのかもしれません。

ネット上で確認された対立

さて、北野氏のエントリーの主眼は、天才に対立する凡人なのですが、この対立、ネットでみられる対立にも近いような気がいたします。

このブログの以前のエントリー「炎上を防ぐためのちょっとした知恵」で以下の絵をご紹介いたしました。(論文はこちらです。)

対立の背景

ここで生じている対立は、「匿名的関係」と「親密な人間関係」であって、前者は天才なり秀才の考え方に対応する一方で、後者は凡人の考え方に対応する。この対立関係は、きちんとしたデータの分析に基づき、現実の電子的コミュニケーションの場で見出されている対立関係ですので、北野氏のエントリーにある天才x凡人の対立関係は、たしかに存在することが確認されているともいえます。

まあ、凡人に対立するのが、天才であるのか秀才であるのか、という疑問は残るのですが、秀才は凡人に対立するような真似をしないと考えれば、凡人にたたかれるのは天才ということになります。まあ、そのようなことが生じていたのではなかろうか、という印象は受けております。ここで、天才といいましても、それほど凄い天才ではなく、少々凡人離れした、ちょっと変わった考えを持つ人間程度に考えておいた方が良いかもしれませんが。

似た話

これにちょっと関連しそうな話が最近のBLOGOSに出ておりました。題しまして「米海兵隊が"PDCA"より"OODA"を使うワケ」です。

PDCAはPlan(計画)、Do(実行)、Check(評価)、Act(改善)のサイクルで、何事もやりっぱなしにするのではなく、やった結果を評価して改善して、次の計画に反映させなさい、という考え方です。

これに対して、OODAは、Observation(観察)、Orientation(情勢判断)、Decision(意思決定)、Action(行動)の4段階からなるサイクルで、ポイントは次にあると上記エントリーはしております。(強調と色付けは私によります。)

最初の観察では五感を駆使して現実をあるがままに直観し、暗黙知的に知覚する。最新の脳科学でも知覚的な情報はほとんど身体が吸収し、脳はそこからしみ出る一部の情報を認識していることが判明している。次の情勢判断では、過去の経験、自身の資質、身についた文化など自らが蓄積してきた暗黙知と新たに知覚した情報をもとに判断する。そして、対応策を意思決定し、行動に移す。

特に重要なのが「ビッグO」と呼ばれる2番目の情勢判断だ。それぞれの部分的な知を総合して全体としての概念を導き、判断する。こうして暗黙知と形式知を相互変換しながら、「部分から全体へ」と総合し、概念化していくことを「暗黙的知り方」と呼ぶ。客観的な数値データをもとに「AだからB、BだからC」のように論理をたどる「分析的思考」よりはるかに俊敏に判断ができる。この過程で論理では到達できない「跳ぶ発想」が入ると創造的でイノベーティブなアイデアが創発され、新しい価値や意味が生まれる

つまりは、PDCAサイクルが理性的、論理的判断に従うサイクルであるのに対し、OODAサイクルは論理以前の知性の働きを使え、ということですね。

これはとりもなおさず、秀才の能力ではなく、天才の使っているような能力を使うことを要請しております。そしてこれがうまくいく背景には、凡人と言えども、天才の思考様式ができないわけではない、訓練次第ではなんとかなる、ということがあるはずです。

なかなか面白い話ではあります。


3/9追記:このお話を最初の議論と関連付ければ、OODAの最初のOは天才の思考で、二番目のOで、これを秀才の思考に変質させていく、というわけですね。

そしてビジネスにも

OODAプロセスは、富士フイルムが採用したプロセスに近い考え方でもあります。このBLOGOSのエントリーの関連する部分は以下の通りです。

OODAループと対照的なのがPDCAサイクルだ。「計画(Plan)・実行(Do)・評価(Check)・改善(Action)」のプロセスのうち、計画(P)はOODAループの意思決定(D)に相当する。

ただ、PDCAサイクルの問題点は、計画の前段階として観察(O)と情勢判断(O)にあたる部分がないことだ。つまり、計画を生み出すプロセスが入っていない。それは、PDCAサイクルがトップダウン型の消耗戦に適応した効率追求モデルであるからだ。

トップおよび戦略スタッフがマスタープラン(基本計画)を策定し、それがブレークダウンされて数値ベースの計画が下りてくる。第一線部隊は計画ありきでPDCAサイクルを回し、効率を追求する。しかし、上から与えられた数値ベースの計画からは新しい意味や価値は生まれない。つまり、PDCAサイクルでは知的機動戦は戦えないのだ。

そのため、「本業消失」を乗り越えた富士フイルムホールディングスの古森重隆会長は、PDCAサイクルを見直し、See-Think-Plan-Do(STPD)というサイクルに改良したが、この前段階にあたる「See-Think(観察・判断)」の重要性を訴えているほどだ。

この、「See-Think(観察・判断)」の部分は、Observation-Orientation(観察・情勢判断)のサイクルと同じといってもよいでしょう。OODAのサイクル、すでに富士フイルムではおこなわれていた、というわけです。そしてそれが富士フイルムが事業転換に成功した所以でありそうなこと、なんとなく、見えてまいります。

このエントリーでは、最後に日本の家電ベンチャーのバルミューダがヒットさせたトースターの例が出てくるのですが、これは、以前のこのブログのエントリー「石井淳蔵著『ビジネス・インサイト』を読む」でもご紹介いたしました、論理実証主義という理詰めの経営を超えた、より直感的なひらめきの経営そのものでもあります。

石井氏も、理性のみに頼るのではなく、理性以前の、言語化以前の知恵を有効に使え、ということを主張していたのですね。

結局のところ、皆さん、だんだんわかってきた、ということでしょう。


続きはこちらです。


最初にご紹介しました北野氏のエントリーに続編「【続編】天才を殺すのは、実は「秀才」ではないか?等への回答10選」が出ております。ご興味のある方はご覧ください。


7/27追記:北野氏の最初のエントリーに続きが公開されています。URLはこちらです。

天才が活躍できるのは乱世のみ、ということでしょうか? ちょっと寂しいですね。


2019.2.27追記:朝渋に著者インタビューが掲載されています。書籍は、結構売れている様子です。まずはおめでとうございます。