舛添要一氏の10/11付けBLOGOS記事「日本学術会議の問題点」にコメントしました。
学術会議の廃止は、全くその通りなのですが、「理科系はまだしも、政治学や法学のような人文科学系の学者が入ること自体がおかしい」という理由は少々問題です。
今日の政治学や法学が学問としての体をなしているか否かは議論のあるところでしょうが、理系、文系という区分けを学問に造ること自体が問題です。なにぶん、いずれは政治や法律の世界にも情報技術の利用を進めなくちゃいけないし、数値的背景をきちんと押さえた合理的判断が必要な世界でもあるのですね。
現在の問題は「自由の誤解」という点にあり、現在の学術会議は裁量権をはき違えているように思われているところなのですね。
どんな組織でも、権限の委譲ということは行われる。たとえば、下部組織の長に任命された人が、「君の裁量で自由にやり給え」といわれて権限を与えられることはよくあることなのですが、その「自由」にはおのずと限界があり、たとえば保養所の運営を任された人が愛人を女将に任命したりしたらちょっとまずい。
これは、それが業務目的に合致するものであるのか、個人的事情によるものであるのかの区別、「公私の別」をきちんとしなくてはいけない、という問題なのですね。
学術会議の場合、個々の学者が政治信条を持つことは個人の自由なのですが、これを学術会議の運営に影響させてはまずい。平和主義もその一つで、「軍事研究はしない」などということを決めること自体、業務上の裁量範囲を逸脱している。
個々の学者は思想信条の自由があるけれど、それは学術会議という「公の組織」を経由してではなく、国政選挙や個人としての発言の場という、個人に認められた基本的人権に基づく制度を利用して行わなくてはいけない、そういうことじゃないでしょうか。
>>現在の問題は「自由の誤解」という点にあり、現在の学術会議は裁量権をはき違えているように思われているところなのですね。
最近、スポーツの選手がオリンピックなどで政治的意見を表明することはやるべきだという意見が出てきている。例の大坂選手のブラックマスクの件だ。
なぜオリンピックで政治的意見を表明することが禁止されているのかを考えるべき。
学術会議は科学の発展に注力すべきであって、政治的意見にそれを利用してはいけない。スポーツ選手は競技能力の向上に努めるべきであって、政治的意見にそれを利用してはならない。