Chikirin氏の12/4付けBLOGOS記事「進化版ライフスタイルとしての『ひきこもり』」にコメントしました。
ポパーが1950年に書いた書物「開かれた世界とその敵(邦訳:未来社、1980年)」の以下の記述を彷彿とさせます。
開かれた社会はその有機体的性格の喪失の結果として、次第に私が「抽象社会」と呼びたいものになるであろう。それはかなりの程度まで、人間の具体的集団という性格、またこのような具体的諸集団からなる組織という性格を失うであろう。めったに理解されることのなかったこの論点は、誇張の方法によって説明できよう。われわれは、人々がほとんど対面することのないような社会──そこではすべての仕事が隔離された諸個人によって遂行され、彼らはタイプされた手紙や電話で連絡し合い締め切った自動車で歩き回るような社会──のことを想像できよう(人工受精を用いれば、繁殖さえも個人的要素なしに行えよう)。このような架空の社会は「完全に抽象的ないし非人格化された社会」と呼んでよいであろう。
…
現代社会では、親密な個人的接触を全然または極めてわずかしかもたず、名もなく孤独に、その結果として不幸に暮らしている人々が多数いる。というのも社会は抽象的なものになったが、人間の生物学的仕組みはあまり変わらなかったからである。人間は開かれた世界では満たすことのできない社会的欲求を持っているのである。
ポパーは、第二次大戦のナチズムへの反省から、「開かれた世界」を理想とし、プラトンと共産主義を否定します。そしてその理想世界の極致が「抽象社会」なのですが、これは、シカゴの社会学者らが指摘する「都市的生活様式」にも近いものなのですね。
コロナという災害の与える社会的影響には、なかなか興味深いものがありそうです。
>>「たとえこういう条件に当てはまっても、自分がつらくなければ問題はない。生活が楽しいなら心配する必要はない」と強調されていたことです。
いいね。
私はそれに仕事だけででいるのでほとんどひきこもりや。