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俯瞰:邪馬台国(その3)大和王権と二人の倭国女王

前回前々回に続き、邪馬台国と卑弥呼に関するお話を続けます。


邪馬台国と女王国の倭国

邪馬台国畿内説の一つの問題に、魏志倭人伝に描かれた卑弥呼らが記紀に現れないこと、大和王権に関する記述が魏志倭人伝に描かれていないことが挙げられます。大和に、歴代天皇と女王がともに君臨するのはおかしいとする考えにも一理あります。

この矛盾を解明するためには、まず、「邪馬台国」につきまして、認識を整理しなくてはいけません。

第一に、邪馬台国と倭国は、明確に区別されるということ。邪馬台国はあくまで倭国女王卑弥呼が「都する」国であり、卑弥呼が邪馬台国の女王であるなどと陳寿は一言も書いてはおりません。卑弥呼は倭国の王であり、邪馬台国の王は別にいた可能性を否定する根拠はどこにもないのですね。

邪馬台国が大和であるとするなら、記紀に記された天皇と卑弥呼の関係がどうであったかが問題となります。もちろん、記紀の記述、特に欠史八代の天皇に係わる記述を全て否定する立場をとるなら、記紀を無視して三国志を正とすればよいだけの話です。しかしながら、その1で述べましたように、御所の所在地に係わる記述は三国志の記述に対応しているようにも読み取れ、記紀に一部の誤記があるとするだけで、三国志と記紀の記述に対応関係を認めることも出来るように私には思われます。

ヒコ・ヒメ制

卑弥呼の時代のわが国の統治のあり方といたしまして「ヒメ・ヒコ制」があったといわれております。ヒコは兵を率い、国を統治する王であり、ヒメは祭祀をつかさどり神の言葉を伝える巫女であり、相互に補い合う形で国を治めておりました。

卑弥呼が特殊であるのは、彼女は一国の巫女ではなく、いくつかの有力国に「共立」された巫女であった点です。これにより、形の上では、王の上に位置することとなってしまいました。もちろん、系統図で王の上であるといっても、実際の権力はさほどではなかったでしょう。しかしながら、国々の間のいさかいを調停したり、他国と交渉する際に倭国を代表する立場というのは、それなりの重みがあります。

卑弥呼の立場は今日の世界では、EUの大統領なり国連事務総長のような立場であるといっても良いかもしれません。これらのポジションにさしたる権力も備わってはいないのですが、かりに異星人が地球を訪れた際に人類を代表してこれと交渉するのは、さしあたり国連事務総長ということになるはずで、魏使を受け入れた際も同様な対応がとられることは自然な形です。

二代目倭国女王はトヨかイチか

さて、邪馬台国を三国志は「邪馬壹國」と記します。この中で「壹」は「台」ではなく「壱」の異字体で、「タイ」でも「ト」でもない、「イ」と発音すべき文字です。しかしながら、日本の首都は「ヤマイ国」などではなく「ヤマト」であるなどということは、人物の行き来が始まった後では中国サイドでも常識となっていたはずで、「壹」は「臺(台の異字体)」の誤記であるとみなされることとなりました。

「臺」を「壹」と誤記することは、なかなかに考えにくく、もっと「壹」に近い形の文字が最初の文書には書かれていたのではないかと考えております。その文字は、もしかすると(ウ冠の付いた豆(𧯜))だったのではなかろうか、と考えているのですね。𧯜は豆の異字体で「ト」と読みます。

壹が誤記であろうことは、卑弥呼が都した国を大和(ヤマト)とする以上受け入れるしかありません。しかし、陳寿が二代目女王の名を壹(壱の異字体)と書いた可能性は高いものと思われます。そして、邪馬台国の表記を修正した際に、二代目女王の名前も修正されてしまった可能性も高いのではないでしょうか。

「邪馬壹國」の「壹」を「臺」に修正するのは、ヤマトの音にあわせるという意味では妥当なものであったかもしれません。しかしながら「復立卑彌呼宗女壹與年十三爲王」とされた「壹與」も同様に「臺與」に修正しているのですが、これを正当化する理由はなく、今日「台与(トヨ)」とされております二代目倭国女王の名は「「壱与(イヨ)」とするのが、少なくとも陳寿の認識であったのではないかと私には思われます。

さて、卑弥呼や壹與は、わが国ではなんと呼ばれていたかという点が興味あるところなのですが、一般的に巫女を氏名で呼ぶことはありそうなことではなく、巫女は巫女と呼ばれていたのではなかろうか、と私は考えております。三国志に現れた各国の官に「卑奴母離」と呼ばれる人物がいくつか現れております。これはおそらくは倭国の地方官である「鄙守」を意味すると思われ、役職名が人を呼ぶ名前となっております。このようなことは今日のわが国でも、少なくとも公的な場では、ごく一般的に行われております。

そういたしますと、卑弥呼や壹與も巫女を意味する言葉で呼ばれていたと考えるのが妥当でしょう。卑弥呼につきましては、「巫女」の前に「ヒ」音に対応する何らかの言葉が付け加わったものとみなすことが出来るでしょう。その一つの可能性として、私は、先代を表す「曾(ヒイ)」であった可能性もあろうかと考えております。一方の壹與ですが、駆け出しの巫女は「市子(イチコ)」ないし「市(イチ)」と呼ばれており、齢13歳の巫女であればイチと呼ばれていたことは大いにありそうなことです。

イチが壹與と書かれたわけ

さて、倭人条には「政等以檄告喩壹與」なる記述があります。この意味するところは、(塞曹掾史)張政等が檄(木板に文字を書いたもの)を用いて壹與に告喩した、ということであり、告喩(告げて諭す)とはずいぶんと偉そうな書き方なのですが、要は「筆談した」ということなのでしょう。当時の倭国で文字が読み書きできる人間などごく少数であったはずなのですが、13歳の壹與にはこれが出来たわけで、彼女は特別な教育を受けた女性であったということができます。

イチである壹與が自らの名前をなんと記したか、これはもちろん想像の域をでないのですが「一」と記したのではなかろうか、と私は考えております。これを張政が報告書に記すときに、より女王の名にふさわしい「壹」の文字を用いて表記することも妥当であるように私には思われます。で、「壹與」の「與」ですが、この文字は助詞的な意味合いでも用いられる文字であり、これがいずれかの段階で名前を表す文字の一部と誤認されることもありそうなことだと私は考えている次第です。

二代目倭国女王が「市」であったといたしますと、この部分は記紀の記述ともつながる可能性がでてまいります。纒向には巨大な箸墓古墳があり、倭迹迹日百襲姫命の墓とされているのですが、その別名は「大市墓(おおいちのはか)」、地名が大市であったことからそう呼ばれているというのですが、大市の墓がある地が大市と呼ばれた可能性だって否定できません。

大市墓

「市」が「迹迹日百襲姫」となったいきさつとして私が注目しておりますのは、ここには数字が多数読み取れるという事実です。つまり市は1、巫女は3、迹迹日は10日、百襲姫は100回襲う姫という形でみな数字に対応いたします。壹與は童女の戯れ歌の意味を解いて武埴安彦(たけはにやすびこ)の謀反を事前に察知し、吉備津彦らの活躍によりこれを平定いたします。その戦勝を祝う宴の席上で、次のような会話がなされたのではないか、と私は妄想しているのですね。

真面目な重臣:このたびの戦、市殿の功績は大きく、市子などとお呼びするのではなく、そろそろ巫女とお呼びするのが良いのではないでしょうか。

ちゃらけた重臣:いやいや巫女(3)では足りませぬ。市(1)殿はトト(10)殿じゃ。いやいやトトでも足りませぬ。市殿はモモ(100)殿じゃ。市殿はモモ殿じゃ。あ、市媛、トトヒモモソヒメ、市媛、トトヒモモソヒメ、、、

ちなみに「トトヒモモソヒメ」とは、勇猛果敢との表の意味とは裏腹に、10日に100回襲ってくる淫乱な女性であるという意味が込められており、その意を悟った宴の参加者からやんやの喝采を浴びたのではなかろうか、というのが私の邪推です。で、卑弥呼やイチの存在を正史から消し去りたいと考えた記紀の作者は、イチをトトヒモモソヒメとして記録に残した、というわけです。

御肇國天皇(はつくにしらすすめらみこと)

記紀は倭迹迹日百襲姫命の死亡記事に続いて、崇神天皇が御肇國天皇(はつくにしらすすめらみこと)と呼ばれたと記します。初回に書きましたように、同様な呼び方は神武天皇にも「始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)」としており、「はつ(最初)」が二回あるのは謎であるようにも思われるのですが、大和という一地域の王であった大和王権が、同時に倭王の座を占めた最初の天皇が崇神天皇であるという意味であれば、この記述にも矛盾はありません。そして、

姚思廉梁書(りょうしょ)列傳第四十八の東夷部分には、卑弥呼の死後の倭王に関して以下の記述があります。

正始中、卑彌呼死、更立男王、國中不服、更相誅殺、復立卑彌呼宗女臺與爲王。其後復立男王、並受中國爵命

前半は、魏志倭人伝の記述を踏襲するもので、正始中(西暦240-249年)に卑弥呼が死亡し、その後に男王を立てたが国中これを不服とし、争いが生じたため卑弥呼の宗女(一族の女、多くは後継者)である臺與を王とした旨が書かれています。そして後半は、「その後また男王を立て、中国の爵位を並び受けた」としており、第二代倭王臺與の後継者は男王である旨が書かれています。この男王が、崇神天皇であるとすれば、我が国の歴史と中国の史書との整合性が保たれるのですね。

臺與の朝貢に関しては、魏志倭人伝にも記述があるのですが、年代に関する記述がありません。これが、晋の時代の晋書四夷伝にある「泰始初 遣使重譯入貢」なる記述に対応している(だから魏史に年代の記述がない)と致しますと、泰始2年(西暦266年)に臺與の朝貢がなされ、そののちのいずれかの時点で臺與の死去に伴い崇仁天皇に倭国王の地位が譲られたということであるのでしょう。

梁書の「並受中國爵命」との記述からは、倭国の二代目女王と三代目男王が中国から爵位を受けたことがうかがえます。すなわち、この二代の王は、それぞれが朝貢し、中国から倭国王として正式に認められたということでしょう。臺與の朝貢は上の記事に見えますが、崇神天皇の記述は見られません。しかし、崇神天皇も何らかの形で朝貢をおこない、爵位を得たと考えられます。そして、記紀に現れる大和の王で最初に倭国王と認められたのが崇仁天皇であるならば、御肇國天皇との呼び名は正当であるということもできるでしょう。

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