青山まさゆき氏の5/14付けBLOGOS記事「変異株の真実/感染力は増して若干の軽症化が数字からの結論」にコメントしました。
青山氏は、「陽性者のうちの重症化する人の割合」をもって、重症化リスクを議論しているのに対し、マスコミは「人口に対する重症者の比率」をもって重症化リスクを議論しているわけですね。
普通の人が、警戒する必要の程度を判定するのは、どちらの比率かといえば後者ですから、マスコミがコロナの危機を煽るときにベースとする数字は、人口に対する重症者の比率で間違いないと思います。
もちろん、リスクの定義がきちんとなされていないことは問題といえば問題なのですが、所詮は学術論文でもない、マスコミの報道ですから、そのあたりは彼らが何を言わんとしているかを読み取って判断しなくてはいけません。
はてなの「寛容の原理」のわかりやすい解説によれば、「議論しあう相手の発言をできるだけ、合理的なものとして解釈する必要があると言う原理」ということです。で、「寛容は強いられている」とも。
https://d.hatena.ne.jp/…/%E5%AF%9B%E5%AE%B9%E3%81%AE%E5…
こういう原理に従って議論をすれば、有益な結論に至ることもあり得るのですが、最初から曲解してかかるような議論をいたしますと、いたずらに議論が発散して収拾のつかないことになってしまいます。民主主義の効率化ないし議論の質を高めるためには、この原理をもう少し尊重したら良いのではないでしょうか。
返信がついております。
どら ねこ
>議論しあう相手の発言を出来るだけ合理的なものとして…
私はこのことに賛同もしますし、瀬尾さんご自身がそうされていることに敬意を払ってもいます。
ただそれは相手も同じ考えに立って物事を論じている場合に限定されても致し方ない、メディアの報道姿勢や立民などの野党の言動を見る限り私はそうも思っています。
瀬尾 雄三
どら ねこ さん
> それは相手も同じ考えに立って物事を論じている場合に限定
A氏とB氏が、互いにある語句に異なる解釈を与えて批判している場合、この食い違いを指摘することはそれなりに意味があることなのですね。
いうなればそれは、冤罪を晴らすような話である一方で、批判者の無能ぶりをさらけ出すような話にもなってしまう。あちらを立てればこちらが立たずという話になってしまいます。
でも、いやしくも他人を批判する際には、おのれの解釈に間違いがないかどうか、他の解釈があり得ないかどうかくらいは、一通り考察しておくのが批判者の義務というものでしょう。
最近の野党が、いかにも愚か者の集団に見えるのも、そうしたところに一つの原因があるのではないかと思います。本人は、鬼の首をとったように錯覚しているのでしょうが、傍から見れば馬鹿みたいに見えるのですね。これは、自らも気を付けるべき、以て他山の石とすべきお話だとおもいます。
青山氏はたいがいまちがっている