ヒロ氏の8/1付けBLOGOS記事「資格と能力は違う」にコメントしました。
このお話は、知的能力には二種類ある、というお話ではないかと思います。昨今、ディープラーニングを用いるAIが注目されていますけど、1980年代ごろにも「人工知能コンピュータ」なるものが注目された時代がありました。当時想定されたAI技術は、AはBであるというような述語を大量に蓄えた知識データベースと、PrologやLispといった推論エンジンからなるもので、知識と論理能力がものをいう、学校教育の世界での秀才に相当する装置だったのですね。
今日のAIは、人間の脳に近いニューラルネットワークと、知識自体を自ら学習して蓄積するディープラーニングからなる、より人間の脳に近い知的装置で、混沌とした入力情報から特徴を抽出し、カテゴライズする、言語化以前、数値化以前の情報を扱う能力を持つ。この点が、1980年代に想定されたAIとは大きく異なります。(まあ、その昔も、ニューロマシンや遺伝的アルゴリズムを用いた学習もなかったわけではないのですが)
この二種類のアプローチは、かつてカントが指摘した「理性」と「悟性」という二つの知的能力に対応しており、カントは理性に頼る近代の風潮を批判して悟性の重要性を指摘しております。そして近年では、経営学の世界でも、論理実証主義に代表される理性重視から、ひらめきや直観、あるいは感性の重要性も認識されてきているのですね。
今回のオリンピックでびっくりしたことに、スケートボードで活躍する日本人が現れたことがあります。そしてこれは、日本にいたのではできないという事実もあります。階段の手すりの上をスケボーで下ったりする人が現れたら、日本では、相当な不良とみなされて非難の対象になる。それがいかに面白いことであっても、です。同じことが、新しい技術やビジネスモデルでも言えそうだ、というところに驚愕した次第。理性だけでは、進歩がない。それと同じ話のように感じられた次第です。
返信がついております。
Mike Takayanagi
スケートのみならず、日本のスキー場もそうですが、必ずスキー場にはコースを仕切るロープや柵があり、そのコース内で滑るというスキー場がほとんどです。海外などは、自己責任で自然の怖さを知りながら滑るという国民性の違いがありますが、やはり違いを生むのは歴然で、滑り方や遊び方が変わってくる、そしてそれは技術の違いを産むというのをスノボーを海外でやってきて感じました。骨折するスケートをやるのがイイとは称賛しませんし、雪崩にあう可能性を産むスノボーの仕方がイイとはいいませんが、確実にプレーする当人達の技術の違いを産むのは確実です。そして、その違いが生き方にも影響し、失敗を恐れずにいろいろな事にチャレンジする精神を生むなど、その後の生き方にも違いが生まれるのも当然で、そこ個々が社会を形成してると思うと、今の日本はいかに保守的な社会で作られてきたのか?!と考えさせられます。
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