「ジェネラリストは必要か?」と題する以前のこのブログエントリーに、「日本では、文系と理系のことだからなあ。」とのコメントをいただきました。本日は、これについて考えてみたいと思います。
ジェネラリストの意味
まず、元記事が参照している瀬本氏は、ジェネラリストについて、次のように述べています。
キャリアの前半では何らかの専門性を磨いて「これが得意分野だ!」とアピールできる領域を持ち、周囲から一目置かれるようになった段階で「スペシャリストからジェネラリストへ転換する(つまり自分の得意分野以外にも視野を広げていく)」という手順を踏むのが王道と言えるのではないでしょうか。
これはたとえば野球選手としてその能力を認められた人が監督になるような話で、文系理系に援用すれば、特定の技術分野で実力を認められた人(たぶん理系)が、研究開発のマネージメントに転ずるような話で、そこに文系の出る幕はないのですね。
ただ瀬本氏は、このあたりをぼやッと語られておりまして、各部署間の調整で一目置かれるようになった人が総理大臣になる(あ、つまり菅元総理ですね)みたいなこともカバーされているような印象を受けます。
文系問題
で、じゃあそれは文系のスペシャリストか、となりますと、これは少々違うような気がします。
つまり、文系とは、文化芸術教養の世界であって、直接その知識が業務に結びつくものではない。でも、これを押さえることによって思考に深みを与えて大所高所からの問題把握ができるようになるほか、人間的な魅力を増し、他人との付き合いを円滑に進めることができるというような特性ではないかと思います。
これは、企業活動が数理的判断とは無縁の、直観的属人的能力に依存していた時代には、様々な特殊技能を持つ人々の間を取り持ち、コミュニケーションをこなし、調整していくことが企業活動そのものであったわけですね。文系の学問を修めて人間的魅力を高めることも、この時代には有効な特性でした。マネージメントそれ自体も、ある種職人的な、直観的な判断に依拠して行われていたわけですから。
ところが、情報技術が浸透してまいりますと、職人的直観的なやり方では通らなくなる。軍事の世界では、第一次大戦までは将軍個人の判断力にすべてが委ねられていたのですが、第二次大戦になりますと、オペレーションズリサーチと呼ばれる数理手法がものをいうようになった。実はこの手の数理手法は、ナポレオンの時代にもあったのですが、これが一般的になったのが第二次大戦の頃でした。
そして、情報技術が一般化した90年代以降には、企業経営においても情報技術の利用が拡大した。POSや地理情報の利用、サプライチェーンマネージメント、統計的手法に基づく販売予測など、数多くの数理手法が一般化し、職人的直観的なやり方から、情報に基づく数理的手法が幅広く使われるようになったのですね。
そうなりますと、マネージメントの場においても、これら数理手法に対する知見と教養が求められ、様々な関数を感覚的に把握する能力なども要求される。つまりは、数学的なセンスがマネージャにも必須になるわけですね。
で、文系とは何かということを改めて考えますと、受験に際して数学的能力が求められないから文系を選んだ人がいないわけではない(というよりも、大部分のはず)なのですね。この文脈になりますと、文系とは能力の欠如という属性に他ならない。そしてその欠けている能力は数学的能力なのですから、この手の人に数学的センスを求めることは、最初から無理ということになってしまいます。
つまり、文系は、数学的能力をもつ人を除いて、ジェネラリストになり得ない、ということですね。
政策的な課題
最近も、理系強化というような話がどこかで出ておりました。これは全くの正解で、まず早急にすべきことは、高等教育の場において、文系の定数を削減し、理系中心に改めることです。おそらくは、定員の9割は理系でなくてはいけない。
前回のブログでご紹介したサンマイクロシステムの場合、経営工学出のエンジニアを大量に採用しており、これが経営上の諸問題解決に大いに役立ったことがかかれております。文系の諸学科も、経営学を経営工学に改めるような改変を行い、従来の経営学で教えていたような諸知識、会計学や戦略論などに加えて、オペレーションズ・リサーチのような数理的な問題解決手法と、情報機器を扱う技術をみっちり教育すればよいのですね。
これは、他の文系とされる学問分野でも同じなのであって、その知識を現実の世界に応用する際には、数値計算が必要になるのですね。つまり、数値目標を作るのは数理モデルだし、数字のない計画など感覚的な思い込みに過ぎない。数字を押さえないで大きな組織を動かすことは、非常に危険な行為でもあります。
また、情報技術をものにしようと思えば、現象を数値的に扱えることを必須の能力とみなすべきでしょう。これは、昇進の際の評価項目に含めることも一つだし、入社試験の際に、確率統計や数理計画法なども試験項目に含めればよい。まず隗より始めよという意味では、公務員試験にこれらの科目を含めなくてはいけません。
今日の大学で、哲学が文学部哲学科で扱われていることに、少々の脱力感を覚えたこともあります。歴史的には、代々の哲学者は自然学、数学、論理学をおよそ押さえていた。デカルトが図形を数値的に扱う手法(座標系)を発明したのは有名な話で、英語では、直交座標系を「デカルトの座標系」と呼んでいる。時間・空間を議論するのに相対論がわからないでは話にならない。これらに係る素養なくして、哲学は諸学の女王などとよく言えたものです。
まあこれは、わき道に入ってしまいましたが、要はそういうことで、情報化時代とは、万事数理的に扱う時代ですから、そのための技術を持つことを、マネージャにも要求しなくてはいけない。そういうことを私は言いたいわけです。
これを人間的魅力だとか、貸し借りだとか、親分子分の関係などなどといった、怪しげなファクターで操作しようと考えますと、いつまでも前近代的な組織構造が保たれ、非効率的かつ非倫理的な社会になってしまいます。そういった要素も、我が国の敗因の一つだったのではないでしょうか。
稀有な例外とその悲劇
文系領域の専門家で、理系という稀有な例外に経済学者の高橋洋一氏がおられます。この方、現代ビジネス記事「財務省がマスコミを煽って火消しを図った『安倍元首相発言』、いったい何が問題だというのか」でも財務省とマスコミの連携プレーをけちょんけちょんに言われておりますが、言っていることは、まことにごもっとも。結局のところ、普通の意味での子会社かどうかは別として、日銀と政府の関係は、一般の企業にたとえれば子会社と親会社の関係であること(=安倍元首相発言の趣旨)、そうそう間違った話ではないというわけです。
この方、数学科出で、「異色」とされているのですが、経済学には計量経済学という分野もありますし、デリバティブの現在価値を計算したりする「確率微分方程式」など、もろに数学や確率統計学の世界の、それも相当に高度なテーマなのですね。
で、この方、窃盗容疑で書類送検されるという事件があり、これが、国策捜査なのか、本人のミスなのか、本人が意図的に起こした窃盗事件なのかがよくわからない。上のWikipediaにもこのいきさつがかかれておりますが、2009.10.7付けのJCASTニュース「『埋蔵金』髙橋洋一初めて告白 置き引きはえん罪だった??」が出典のようです。
これが仕組まれた冤罪といわれると、そうかもしれない、などと考えてしまうような、国策に反する主張をこの方いろいろとされています。そもそも、小泉改革が、ある意味国策に反する。つまり、既得権益を守ろうとする人たち(=この国を牛耳る人たち)にとっては小泉・竹中改革は反逆であり、その推進役の高橋氏も、抹殺されるべき存在に分類されてしまいます。
これが冤罪であるのか否かは、諸説紛々ある中で、真実はこれだとも言い難い。でも、面白い一点は、この方が経済学の世界では珍しい数学者であったということ、理系人間であったということなのですね。
実は、文系人間は、ヒトを見て仕事をする。理系人間は、モノを見て仕事をする。人間関係の中に解を見出すのか、自然法則の中に解を見出すのかという、方法論の違いがそこにはある。だから、出てくる結論は全然異なってしまうのですね。
で、我が国の抱えている問題は、上の二つの方法論のうち、本来あるべきは後者なのだけど、我が国では前者が支配的だという齟齬が根底にある。高橋洋一氏の指摘する問題が、実は、我が国の抱えている大問題の根源に近いところにあるのですね。
このブログでは、この方のご主張についても、今後、見ていくことにしたいと思います。
まああんまり深くは考えてないけどな。