正月といいますのは、会社勤めの身である私にも、暇な時間がたっぷり取れる得難い機会でして、これを利用して何冊か本を読んでやろう、と書店を物色しておりました。で、何冊か買い込んだうちの一冊が「ペンローズの<量子脳>理論―心と意識の科学的基礎を求めて」です。
1. ペンローズと大脳の問題
書店でこの手の書物を見かけると、ちょっと読まないわけにはいきません。なにぶん、このブログでの最近のテーマに合致しております。でも、この本を選んでしまったことに、少々後悔しております。何しろ、この本、評価が難しい。
第一に、ペンローズという方、天才的物理学者でして、この方がどの程度の知性をお持ちか、まず凡人には理解できません。もちろんこれは物理学の話でして、心と意識の問題や、大脳の内部で起こっていることに関しては、天才ペンローズ氏といえど、凡人の私とさほど違わないレベルである、と勝手に期待しておきましょう。
と、いうわけで、今回は、物理学の深遠を離れた、心と意識の問題、大脳の問題を中心に、この本をご紹介することといたしましょう。
2. マイクロチュ―ブル
まず、同書におけるペンローズ氏の主張の中核は、ニューロンの中に「マイクロチューブル」という量子力学的機構が存在し、ここでの波束の収縮が時間意識を生み出す、というものです。
これは、最近の脳科学の知見とは相当に異なっており、また、訳者あとがきによりますと、ペンローズ氏も最近ではこのような主張を引っ込めており、この部分での主張は少々懐疑的に理解するのが良いように思います。
現時点で理解されているニューロンの作用は化学反応であり、量子力学的不確定さより、むしろ、熱的乱雑さ、すなわちエネルギーとエントロピーの支配する領域であると考えられています。
もちろん、化学反応は、反応に関わる分子の外殻電子のやり取りによって生じるものであり、個々の分子でみれば、その反応は量子力学的サイズの現象であることは、疑う余地もありません。また、ニューロンのサイズであるミクロンレベルの大きさは分子の寸法であるナノメータの数百倍から千倍のオーダーであり、分子数は体積に比例しますので、その3乗掛ける濃度の数の分子が反応に関与する、と見積もることができます。
この「濃度」といいますのは、神経伝達物質の割合なのですが、仮にこれがppmオーダー、つまり百万分の1程度であるとしても、反応に関与する分子の数は数百から数千ということになり、ニューラルネットワークで生じている現象は、量子力学的不確定性が支配的ではない、統計的な期待値で議論してよい現象である、ということになります。
ただ、揺らぎの効果はあるかもしれません。しかし、それを言うなら、シナプス伝達における熱的な揺らぎも同様な効果を及ぼすはずです。これは、分子の熱運動が花粉などの微小な物体を動かす「ブラウン運動」が、ミクロン程度の分解能しかもたない、光学顕微鏡でも観察できることからも予想されることです。
というわけで、シナプスで行われている情報伝達は確定的ではなく、揺らぎを含む確率的現象である、というところまでは認めても良いように思われます。ただしその原因は、必ずしも量子力学的不確定性にあるのではなく、化学反応が有限の大きさを持つ分子によって行われていること、およびシナプス接合が非常に小さいサイズであること、の双方からの帰結である、とみなすのが正しそうです。
3. 小人さん問題
ペンローズ氏の主張で少々問題であると思われますのは、人の脳で生じている現象は、単なるニューロンにおける情報伝達ではなく、それよりも一段深い、量子力学的メカニズムが支配しており、その部分に人の心と意識があるのだ、だから人の精神機能をコンピュータで作り出すことはできない、という論理構造をしているところでしょう。
このような議論は、心身二元論における「小人さん」の問題と同様で、人体は機械的に構成されているが、その内部に心をつかさどる存在(小人さん)があるという解釈は、ではその小人さんの内部構造はどうなっているのか、という新たな問題を引き起こし、これがまた機械的に構成されているなら、その心はどこにあるのか、と疑問が循環してしまいます。
結局のところ、人の脳がニューロン以上の物理現象を含むとしても、そこに超自然的存在が介在しないかぎり、その物理現象を含めて人工的な電子回路によって再現してしまえば、人の脳が行っているのと同様の精神的機能を人工的に作り出すことができる、ということになります。
ここで、シナプス接合部における揺らぎが何らかの有効な働きをしており、通常の計算機で行っている確定的な演算処理では、人の脳と同一の機能を実現することができない可能性はあります。しかし、揺らぎもまた人工的に再現することができまして、数値的な乱数発生関数で不十分であれば、熱雑音を利用したり、放射性物質を利用した物理的乱数発生のメカニズムを追加すればよいわけです。
そういえば、人工皮革の表面に完全にランダムな模様を描くためVOAのラジオ放送音波をベースに乱数を発生させる、という発明がありました。今日同様の結果を得るためには、わざわざラジオ放送を受信する必要もなく、インターネット上の膨大な情報を適当な手段で収集して、これをベースに乱数を発生させればよいはずです。
たとえば、ヤフーファイナンスの投稿数上位のボードから最新投稿記事をいくつか取り出して、その内部の文字コードをハッシュ関数で処理すれば、完全な乱数が得られるはずですね。
もしかすると、放射性物質をベースとした、量子力学的に作り出した乱数を提供するサイトが、どこかにあるかもしれませんね。原発の近くに設置された放射能モニターの出力が公開されていたら、そいつが利用できるかもしれない、、、
4. 意識とはなにか
閑話休題。時間意識につきましても、量子力学的効果を持ち出すまでもなく、人が生きているかぎり脳内での化学反応が継続していれば、時間の経過とともに脳内の状態は刻々と変化するわけで、意識の状態も時間とともに変化する、すなわち時間の経過を感じることができる、というわけです。
私の想像では、人の脳内には、多目的な、特に複雑な情報処理をつかさどる部分が存在し、これがいわゆる意識、ということになるのではなかろうか、と考えております。ニューロンの多くは、固定した、特定の情報処理に用いられているのですが、それだけでは新たな経験に対応できません。新たな経験に対応するためには、特定の目的に限定されない情報処理機能が存在するはずで、それがすなわち意識である、と私は想像しております。
まあ、この部分につきましては、いずれ脳科学が明らかにするのではないか、と期待しております。
過去の人工知能研究の多くが失敗に終わった最大の理由は、人の脳内で行われている情報処理が非常に複雑なものである、という理由によるのではないか、と私は考えております。成功している人工知能は、例えばパターン認識や二足歩行などの、極めて限定的なニューラルネットワークを人工的に形成することであって、これらは人のニューラルネットワークの内部でも、独立性の高い部分に相当します。
しかし、意識を生み出そう、ということになりますと、脳内の極めて広い部分がこのために使用されており、相互に関連する多数のニューロンの動きは、ある種の多体運動であり、単純な計算機での処理は非常に困難になるものと思われます。
結局のところ、意識を持った機械は、人の脳と同程度の複雑さを持つ装置とならざるを得ず、これに必要なハードウエアは、半導体技術の水準と研究開発に振り向けることのできる資源量から、現在では不可能である、ということになるのでしょう。
5. 三つの世界
同書でもう一つ面白い点は、以前ご紹介いたしましたポパーの3つの世界が、多少形を変えて登場していることで、ペンローズ氏によりますと、物理的世界と、心の世界、そしてプラトン的世界の3つの世界が互いに入れ子構造になっている、と説きます。
プラトン的世界、といいますのはイデアの世界、理想化された概念の世界でして、例えば理想的な直線や円や三角形は、現実の世界には存在しないのだけど、概念としては存在する、というわけですね。
ペンローズという方、非対称的なタイル張りを提案されるなど、図形から入る、という思考パターンをお持ちのように見受けられます。確かに3つの世界の入れ子構造、というのは、図形的に美しいのですが、それでこの世界を説明しているわけでもなく、単に図形が提示されただけ、というのも少々困りものです。
これに対する私の理解は、本ブログでも述べましたように、カントの世界観を踏襲するもので、我々の知覚の彼岸に確かな世界を認める一方で、我々が知覚するのは、知覚を通して自らの精神的機能の中に形成された現れ、表象である、ということなのですね。人はそれをさまざまな概念として理解するのですが、概念もまた、精神的機能の内部にのみ存在し得ます。
人が知りえるのは、自らの精神的機能の内部だけなのですが、人は自らの精神的機能を、生れ落ちて以降の成長の過程で、他者と情報交換を続けることで形成する。この過程で、他者が共通に認める世界が存在することを知るのですね。これが文化、常識、定説、ないし、人類の持つ知識の総体でして、人はその不完全なコピーを自らの主観の中に形成する。これを人は客観とみなします。
客観もまた概念を持って語られています。客観を作り出し、保持し、発展させる精神的機能をつかさどる存在とは、実は、コミュニケーションチャンネルで接続された人の集まり、すなわち社会である、というのが私の理解です。
社会という精神的機能を有する装置は、なにぶんその構成要素に、人という精神的機能を有するパーツを使用しておりますので、そこで扱われる概念は、個々の人が扱う概念と類似しており、それゆえに、人は客観のコピーを自らの主観のうちに持つことができる、というわけです。
と、いうわけで、この本、面白い本ではあるのですが、すべてを真に受けてはいけない本である、ということが言えそうです。また、同書は竹内薫氏と茂木健一郎氏という、比較的名の通った科学ジャーナリスト(解説者?)の解説を大量に含んでいるのですが、怪しげな学説部分に対しても批判精神を発揮することなく、ペンローズ氏を持ち上げるだけ持ち上げる、という姿勢からは、わが国の科学ジャーナリズムの現状にも少々の問題なしとはしない、との印象を与える書物ではあるのでした。