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竹内好「日本とアジア」を読む

本日は、少々昔に発表された論文集ですが、竹内好氏の「日本とアジア」を読むことといたしましょう。

何でこんな本を読む気になったかといいますと、最近の朝日新聞の紹介を目にしたことがその理由。このリンクをたどっていただけば記事が読めるのですが、なんとなく気になる存在ではあるのですね。そういえば、Wikipediaのこの項目も、朝日新聞の記事を引用した形です。この方、最近まで忘れられていた方、ということでしょうか?

戦前思想に回帰すべしという風潮が一部に出ておりますこの時期に、朝日新聞が竹内好氏に着目することは、なんとなく頷ける話である、などと考えたくもなってしまいます。少なくとも同書で竹内氏が主張しているのは、「大東亜共栄圏」が、マヤカシ、とまでは言わないにせよ、矛盾をはらむ思想であったということで、なるほど朝日新聞が世の関心を彼に向けさせたいと願う、その動機はあるのですね。

とはいえ、仮に朝日新聞にそんな下心があったといたしましても、これを非難することは的を射ていないでしょう。文句があるなら竹内好の主張に反論せよ、といわれるだけのことですからね。

さて、「日本とアジア」は、明治維新から太平洋戦争までの日本の思想を扱った竹内氏の論文を集めたもので、発表は1940年代の終わりから1960年代の初めの間、終戦から安保闘争に至る間に発表されたものです。

まず、この時代の文化人の基本的スタンスが左よりである、ということは踏まえておかなければいけません。なにぶん、ソヴィエト連邦は健在でしたし、中国も、北朝鮮までもが輝いて見えた時代です。竹内氏は、安保条約に抗議して大学に辞表を出したりしていますから、あきらかに左よりなのですが、マルクス主義、というわけではありません。でも、資本主義から共産主義へと歴史は流れる、という基本認識はもっていたわけですから、マルクス主義を全否定しているわけでもないように思われます。

さて、同書で面白いところがいくつかありますが、まずは座談会「近代の超克」です。これにつきましては、以前のブログでご紹介した「反西洋思想」の最初の部分に出てまいりまして、著者のブルマ氏とマルガリート氏、そんじょそこらの日本人よりもよほど日本の思想界に詳しい、などと書いてしまったのですが、竹内氏のこの本を読みますと、「近代の超克」は結構知られた話題であったのですね。あら恥ずかしや、、、

真珠湾攻撃から8ヵ月後に行われましたこの座談会、テーマであります「近代の超克」とは、「西洋の知に対して東洋の精神文化を興隆しなければならない」などということを前のブログでは書きましたが、そうそう簡単な話ではありません。これがわかるだけでも、この本を読む価値はある、というものでしょう。

なにぶん、日本が列強に肩を並べるまでになったのは、西洋の知を受け入れて近代化を進めたからでして、中国・朝鮮に対する指導的立場を狙う背景には、これらの遅れた国々に対して日本が影響力を行使することによって、東アジアの地位を高めんとしたからに他なりません。

もちろん、こんな奇麗事だけではなく、当時の列強諸国が繰り広げておりました植民地拡大競争に、日本も遅れまいとしたことが背景にあるのは間違いありませんが、思想としてはこういうことであったのですね。

ただこの思想も矛盾をはらんでおりまして、日本が西洋化する一方で、歴史的な交流の深い中国・朝鮮への親近感を抱く、というのは、実情としては確かにその通りなのですが、矛盾した状況ではあります。日本がアジア諸国と一体感を持ってアジアの盟主たる立場を目指すのか、西欧化した列強諸国の一員にわが国を位置付けるのか、これは相互に矛盾したシチュエーションであり、その双方を目指した基本的部分が矛盾をはらんでおりました。

今の段階で考えますには、福沢諭吉の「脱亜入欧」の思想の上に、あくまで列強諸国の一員として行動すべきでなかったか、と個人的には思います。大東亜共栄圏は、これに変な大義名分を与えようとしたのが間違いであったのではないか、という気がいたします。

もちろん、同書にありますような、アジア主義、すなわち中国・朝鮮への列強支配を防ぐ、という考え方はそれなりに正しい思想です。しかし、これと植民地支配を目指すわが国の行動は矛盾しており、現地の人々からは怪しまれ、疑われてしまう結果となります。

なにぶん、脱亜入欧の精神の元に近代化を進めた日本は、中国・朝鮮から見れば列強の一員。彼らにしてみれば、日本の東洋進出は、列強の東洋進出と、なんら変るところがないのですね。ならば脱亜入欧に徹すべきだったのではないか、と私は思う次第です。

アジア主義の路線を徹底するならそのような方向もあったのでしょうが、それなら、アジア主義に燃えて大陸に飛んだ人々を支援する形の政策をとるべきであって、「近代」の象徴ともいえる軍事力をもって、力ずくで現地の抵抗勢力を押さえる政策はとるべきではありませんでした。このような政策と、このお題目とは矛盾しているのですね。

竹内氏は、この「近代の超克」をテーマとする座談会は失敗に終わった、と述べます。確かに、参加者の意見がばらばらで、何の進展もなく、新しいものも生み出していない以上、この座談会は何ら成果を得られなかった、ということでしょう。しかしながら、このようなテーマで熱く語る、というその行為そのものが当時の日本人の精神を鼓舞する働きをしたのではなかろうか、と私は思うのですね。

まあ、情緒的な意義、とでもいいましょうか。もちろん理性の人であります竹内氏には、そんな情緒的側面など評価に値しないのでしょうが、ブルマ氏とマルガリート氏は、そのような情緒的な反西洋思想を、この座談会の中に見出していたのではないか、と私は思う次第です。

さて、この本、恐ろしく中身の濃い書物でして、そうそう簡単にご紹介できるものでもありません。まあ、私の専門分野を外れている、という問題もあるのですが。そこで、同書にご興味のある方は、原典にあたっていただくことといたしまして、ここでは、私の感想だけを記しておくことにいたしましょう。

まず、わが国の道がいずこにあったか、ということを今日から過去を振り返って考えますとき、福沢諭吉の脱亜入欧論こそが唯一正当な道であった、と思わざるを得ません。

なにぶん、明治維新直前のアジアを取り巻く国際情勢は、アヘン戦争に象徴される、列強の世界支配の真っ只中にあったのですね。しかもそれは、あきらかに人道に外れるものであって、なおかつ、西欧の軍事力の故に正当化されておりました。「勝てば官軍」は、わが国だけの論理ではありません。

そんな中で、わが国がとりうる唯一の道は、近代化すること。産業を振興し、軍事力を強化して、列強の一員として、蹂躙される側ではなく、蹂躙する側へとわが国を位置付けることでしかありません。これはすなわち、西欧化することであり、まさに福沢諭吉の主張がまったく正しかった、というわけです。

一方で、わが国は伝統的に、中国・朝鮮との長い交流の歴史があり、文化的にも近い関係があります。このため、国内に中国・朝鮮に同情的な心情が生まれることも、止むを得ないことではあったのでしょう。

このような心情は、どちらかといえば、美徳の部類に属すものなのでしょう。そして、玄洋社、黒竜会の人々の朝鮮・中国における活動も、おそらくは純粋な心情に根ざしていたのでしょう。このような行為は、道義的、倫理的観点からは、賞賛されこそはすれ、非難されるべきいわれはありません。

しかしながら、愛に基づく行為も、相手に受け入れられなければ単なるストーカーと同義です。また、仮にその愛が相手に受け入れられたところで、自らの親の反対で婚約を破棄するようなことがあれば、相手には迷惑極まりない話です。当時の日本の志士たちの朝鮮・中国での活動も、結果的には、はた迷惑な愛情であった、ということではないでしょうか。

大東亜共栄圏につきましては、なまじ変なスローガンを掲げたところが問題であり、列強と同じ立場でアジア進出を図るのであれば、これはこれで論理が通っていたのですね。その場合、他の列強諸国に対して、わが国は地の利を得ております。彼我の強い面、弱い面を冷静に分析して、わが国の取るべき道を選んでおれば、そうそうひどい結果にはならなかったのではなかろうか、と悔やまれる次第です。

当時のわが国の政策を誤らせてしまったのは、国民感情。新聞論調や、思想家の勇ましい言動も、結果的に政策を誤らせる原因となってしまいました。

このような状況は、今日でも変わりはなく、わが国の政治が何をなすべきかは、冷静に分析される必要があります。一時の国民感情に流される政治は将来に禍根を残すこともある、ということを、よく認識すべきでしょう。これは、政治家だけでなく、マスコミや、世論をリードすべき言論人も心すべきことだと思います。

まあ、朝日新聞がそこまで考えた上で竹内好を取り上げているのであればたいしたものなのですが、単に大東亜共栄圏を否定する、という表面的な部分だけで彼の思想を取り上げるのであれば、それは何ら今日的な意味をもたない、ただの足の引っ張り合い、であるような気がいたします。他人を批判するだけでなく、つねに自らを省みる、という姿勢も大事ではないか、と思うのですね。

さて、わが国が今まさになすべきことは、財政再建であり、構造改革によるわが国の政治・経済・官僚システムの効率化である、という点は論を待たないでしょう。このことをきちんと主張している人は、たとえば竹中平蔵など、少数派にとどまります。で、これを支持する論調は、今日のマスコミには少ないのですね。

改革に抵抗する官僚勢力も依然健在であるなか、抵抗勢力としての色合いの強い民主党が勢力を伸ばした現今、果たして福田総理にどれだけのことができるのかは、はなはだ疑問です。少なくともこれまでのところ、わが国のリーダは目先の心配事に右往左往しているようにしか見えません。国民やマスコミは、これをただ笑ってみているだけ、というのも少々情けない話ではあります。

こういうことがキチンとできる人は、再登板を明確に否定しておられる小泉さんくらいしかおられないことが、今の日本の最大の不幸なのかもしれません。このことをご当人が意識して、再登板を決意していただくことが、日本を救う唯一の道ではないか、などという気もいたします。

まあ、そうしていただけると、株価が上昇してうれしい、という私の下心も、否定できはしないのですが、、、