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「反西洋思想」を読む

9.11以来、米国とその同盟国(含日本)はテロとの戦いに明け暮れているのですが、スターウォーズなどのハリウッド映画を見慣れた目には、テロリスト達の姿が主人公(つまりは正義の味方)に重なってみえる一方、これに対するネオコン率いる多国籍軍が、悪者一味にみえて困るのですね。

ブルマとマルガリートの「反西洋思想」を読みますと、このような皮肉な状況に至りました事情というものが、なんとなくみえてまいります。そこで、本日はこれについて述べてみましょう。

近代の超克とオクシデンタリズム

まず、「反西洋思想」という書名ですが、原題を素直に日本語に訳しますと「オクシデンタリズム:敵からみた西洋」とでもいうべきところ。「オクシデンタリズム」とは「オリエンタリズム」の反対でして、進んだ西洋が遅れた存在としての東洋をみるのが「オリエンタリズム」であるのに対し、正当な生活を営む東洋が邪悪な存在としての西洋をみるのを「オクシデンタリズム」と呼びます。

同書は、1942年7月、京都に参集いたしました日本の民族主義者たちの座談会から幕を開けます。この内容が、あまりにも的確に紹介されているため、思わず著者略歴をチェックしてしまいました。日本人が書いたものか、と思ってしまったのですね。もちろん、著者達は日本人ではありません。一人はオランダ人、一人はユダヤ人です。しかし、専門は日本文化の研究ですので、日本に詳しいのも道理です。

ただ、この人たちの日本精神史の理解は並大抵のものではありません。そこらの日本人などより、よほど深く、日本人の精神史を理解しているのではないか、という気すらいたします。日本人が、自分達が何を考えてきたのかを知る上でも、この本は良書、といえるのではないでしょうか。

京都での座談会のテーマは近代の超克近代、というのは西洋の知であり、これに対して東洋の精神文化を興隆しなければならない、という危機感をバックに行われた座談会でした。なにぶん、1941年12月8日が日米開戦の日、座談会が行われたのはその7ヵ月後だったのですね。

この場の共通認識ともいうべき、「非人間的な西洋に対する嫌悪感」を、著者達はオクシデンタリズムと呼び、同様な考え方は古いヨーロッパにもあったし、今日の世界にも広く蔓延していると説きます。

この文脈で嫌われたのは、古くはローマであり、フランスであり、イギリスであり、プノンペンであり、カブールであり、そしてもちろん今ではアメリカ合衆国が嫌悪の対象となっているのですね。

ローマに来た詩人ユウェナリスはこう書きます。「いったいローマで何をすればいいのだろう。私は嘘をつく術を知らないというのに」。プロシアの作家テオドール・フォンターネは「金という黄熱病におかされ、蓄財の悪魔に魂を売った」イギリス社会が、やがて崩壊すると確信していました。

オクシデンタリズムとオリエンタリズム:対立の構図

同書の価値は、個々の事例を詳しく解説するところにありまして、ここでは細部に立ち入ることは難しいのですが、いくつかの概念的な部分についてご紹介しておきましょう。

第一に、西洋と東洋(あるいは土着の文化)の対立を、都市と農村の対立にオーバーラップさせます。腐敗した都市に対して農村の美しさを高く評価するのがオクシデンタリズムであり、田舎を見下すのがオリエンタリズム、というわけですね。

第二に、知の西洋に対して魂の東洋、という対比がなされます。知は目標に至る筋道を与えることで物質的な価値を生み出し、生活を豊かにするのですが、正しい目標は魂が与える、というわけです。魂の救済を優先する思想から、己の利害を離れた、英雄的行為への憧れが生じるわけで、なるほど、ハリウッド映画的主人公には、西洋的発想の人には、ちょっとなりにくいことも理解できます。

第三に、オクシデンタリズムという発想は、東洋が自ら生み出したものではなく、西洋的思想がそのベースとなっている、と同書は主張いたします。

日本の国家神道にしたところで、明治維新を担った人たちが、西洋の精神的支柱であるキリスト教に対抗すべく、人為的に生み出したものである、というわけですね。これは、当時の日本人の誤解に基づくものであって、西洋の精神的支柱はキリスト教などではない、とも同書は主張いたします。

まあしかし、明治維新の頃の日本人がなりふり構わず近代化(西欧化)に走ったのは、当然であった、といえるでしょう。なにぶん、イギリスは中国への麻薬販売を認めさせるためにアヘン戦争を起こしておりましたし、米国の奴隷制を巡る南北戦争も明治維新の直前。この奴隷制たるや、アフリカの人たちを拉致して、奴隷として売買していたのですから、当時のイギリスにせよアメリカ合衆国にせよ、今日の北朝鮮に輪を掛けた悪の枢軸であったわけです。

もちろん、このような行為がキリスト教の教えであるはずもなく、単に自らの利益の極大化を狙う、プラグマティズムの思想に基づく行為です。

おまけにこれらの国々は軍事力でも他を凌駕しておりましたので、当時の日本人が危機意識をもつことはあたりまえであった、と思います。太平洋戦争にまで至ってしまったことは断腸の思いであるものの、明治維新以後の日本は、今にして思えば、奇跡的ともいえるくらいに良くやったものです。少なくともこの点だけは、我々は、先人達を誇って良いはずです。

英米が、自国の行為を正当化しようと思えば、未開な地域の人々と西欧の人々が異なる存在であって、西欧の人々に対しては非倫理的となる行為であっても、未開な人種に対しては許される、と考えることになります。このような思想は、未開とされた人々からみれば人間性に欠ける思想であり、乗り越えられてしかるべき発想です。

もちろん今日の西欧におきましては、このような発想は政治的に正しくない、とされているのですが、高々百年の時間差、人々の意識の底までは変わるべくもなく、ときとして差別意識が発露される局面もあるのですね。

オクシデンタリズム礼賛

さて、同書は古今東西のオクシデンタリズムにつき、詳細に紹介いたします。その結果、筆の勢いはオクシデンタリズムに傾きがちでして、オクシデンタリズム礼賛の書、なんて雰囲気すら醸し出されているのですね。

もちろん、著者達の基本的スタンスは西洋の側にあるのですが、敵側の論理に思わずうなずいてしまいます。

なにぶん、米国系ファンドのなりふり構わぬ営利の追求は、わが国でも目に余るものがありますし、昨年暮れの米国の金融関係者のはしゃぎぶり(巨額のボーナスを手にして、連夜豪勢なパーティーが続いたなど)には眉をひそめたくもなります。今の地上にソドムとゴモラを探すなら、その一つがニューヨークであることに異論はないでしょう。で、もう一つにつきましては、それが東京でないことを祈るばかりです。

全米ライフル協会のロビー活動により銃器の売買が野放しとなっており、政権に深く入り込んだ石油業界の利益を守るため、地球温暖化対策には消極的で、あまつさえ、国際的にも利権を追求する。その結果、一部の企業が富を積み上げる一方で、多くの人々が困窮し、あるいは命を落とす。

こんな米国の姿を見せられれば、ビン・ラディンの「米国は悪の帝国である」との言葉が異様に説得力をもつのですね。貿易センタービルの崩壊をみて、地上に正義が行われた、と考える人が多いとしても、何の不思議もありません。

都市化とその害悪を防ぐ知恵

もちろんこんなことが横行するのは困るわけでして、この現実は何とかしなければいけません。同書が書かれた理由も、そのために敵方の思想を明らかにせん、と意図したものであることは明らかです。

しかしその結果は、敵方の思想は良くわかるものの、その思想がまことにごもっともとの印象を与えるのみで、処方箋を示せないままに終わっているとの感を受けます。そこで、以下、私が思うところを少し書いてみたいと思います。

まず、都市と農村の対立という構図は非常に一般的に見られる現象であり、東洋と西洋の対立に限定されるものではありません。農村は個々の構成員の人格が尊重される一方で、閉ざされた世界であり、誕生と同時に運命が定まってしまう傾向が高い、という問題があります。一方の都市は、人間関係が希薄であり、孤独や犯罪など、都市特有の病理現象を伴いながらも、そこに住む人たちに、さまざまな機会が提供される世界でもあります。

先進国においては、都市化が進み、かつての農村も都市的社会へと変貌していきます。これが進みますと、最後には、国家全体が都市化いたします。この過程で、温かみのある人間関係が失われる一方で、国民の全てに機会が開かれるようになります。このような変化は、さほど悪いことではないし、経済の発展に伴って必然的に生じる、避けられない現象なのですね。

都市における退廃や犯罪、スラム化などの問題は、確かに都市化に伴って生じる問題ではあるのですが、都市であれば必然的に生じる、というわけではなく、都市の管理運営上の問題に過ぎません。西欧社会における非倫理的傾向、例えば禿鷹ファンドにみられるような拝金主義の横行も、各種法制の整備により抑制することができるでしょう。

西欧の先進国においても、魂が軽視されているわけではなく、人間性を尊重する必要があることは十分に認識されています。一方で、市場経済は利を求める行為を前提としており、これを道徳律と一致させるために、さまざまな社会的制約が課せられているのが実情です。

ネオコンが跋扈した米国にしても、民主主義が機能した結果、共和党は政権の座を追われんとしています。米国における政治状況は、非倫理的なブッシュ政権を、市民の良識が駆逐してしまったのですね。(まだ、過去形で語るには、早すぎるかもしれませんが。)

オクシデンタリズムからの脱却を目指して

オクシデンタリズムの温床は、第一に経済的な発達の遅れであり、人々が貧しい状態に保たれていることがその一つの原因と考えられます。第二に、知の暴走を防ぐ社会的手立てが十分に整備されていないことも、西欧を発信源とする種々の害悪がはびこり、他の人々から怪しまれる結果となるのではないか、と私は思います。

このような状態はいずれも好ましいものではなく、これら原因の側において適切な対応がなされれば、オクシデンタリズムは終焉の方向に向かうのではないでしょうか。

人々が物質的に豊かになる、そのこと自体は悪いことではなく、経済的な発展は今後も続くでしょう。人、物資、資金、情報は、ますます世界全体を駆け巡り、村落的コミュニティーが存在しうる領域は狭くなる一方です。この流れに抗すことは現実的ではなく、その害悪を防ぐ手立てを考えるしかありません。

この場合に大事なことは、知には知で対抗しなくてはならない、という点です。知に魂で対抗しようとすれば、最後まで対立は解消されません。ファンドが非倫理的行為に走るのなら、それを防ぐ法的手立てを考えなくてはならないのですが、それを可能とするものは、ファンドの知に対抗しうる、立法者の側の知でしかありません。

古きよき時代を懐かしむのは人間の自然な感情であり、村落的コミュニティに憧れを抱くことも理解できます。しかし、そのユートピアが夢想の中にしかありえないとすれば、他に実行可能解を求めるしかありません。それには、多少は道徳的な人たちの、英知に期待するしかない、と私は思う次第です。