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石川文康著「カント入門」を読む

先週のこのブログで、カントの「純粋理性批判(上)(中)(下)」を1/6ほど、「プロレゴーメナ」を40%ほど読んだ段階で、カントの哲学につき論じました。その後もカントへの挑戦は続けていたのですが、この難渋にして長大な書物はとても読みきれない、との判断から、ちくま新書に多々あります「xx入門」の中の「カント入門」を読むことといたしました。

この書物、確かにカントの思想を手早くつかむには好適な書なのですが、カントの主張を述べるばかりで、今日的な立場からカントの思想を批判するということがありません。もちろん、「カント入門」だからそれも正しい行き方なのかもしれませんが、なにぶんカントは200年も前の時代の思想家ですから、その主張がその後覆されている、ということだって多々あるわけで、その部分への言及がないのは不親切である、という気もいたします。

もちろん、このブログはいろいろなものを読んでいるのですが、書かれていない部分、表面に現れていない部分を読むのが身上でして、カントの思想の問題点が書かれていないからといって、そこまで読み取って悪い、ということはありません。大いに行間なり紙背なりを読むことといたしましょう。

まず、石川氏は、カントの思想であります「理性批判」の糸口として「アンチノミー(二律背反)」を取り上げます。これは、確かにカントの書物にかかれている事柄なのですが、私はほとんど読み飛ばした部分です。なにぶん、私はこの部分に、今日的な意味での説得力を、ほとんど感じなかったからです。

第一のアンチノミーは、空間なり時間なりは有限であるのか、無限であるのか、という問いかけであり、有限であるならその先はどうなっているのか、無限なら今に至るはずはないではないか、といたしまして、いずれの説もありえないといたします。

これは、無限に関するパラドックスとして、ギリシャ時代から知られていたものですが、おそらくはカントの時代にも、このパラドックスに対する正解は得られていなかったということでしょう。このアンチノミーは、たとえば整数というものを考えると、何の矛盾もなく理解されます。

整数は無限の範囲をもっております。いかに大きい整数といえど、これに1を加えたものはやはり整数であり、これより大きな整数が存在しますし、同様にいかに小さい整数にもこれよりも小さな整数が存在いたします。しかし、それでは整数ゼロに至らないかといえばそんなこともありません。0なり1なりという整数から上下の広がりを考えればよいだけの話なのですね。

もちろん、整数を最小値から数える、ということを考えますと、いつまでもゼロに至ることはできない、ということはいえるでしょう。しかし、整数には最小値というものが存在しませんので、この議論は前提が間違っております。無限の広がりとの前提からそもそも存在しない最小値以外であれば、いずれの整数を出発点に選ぼうとも、有限の数だけカウントすればゼロに到達することが可能なのですね。

一方、有限の要素からなる「整数もどき」というものも考えることができまして、これは今日では「ガロア体、有限体」などと呼ばれております。計算機で扱います整数は、実質的に有限体でして、16 bitで扱われる符号付整数は最大が32,767、最小が-32,768であり、有限の幅しか取りえません。では、最大値に1が加算されたらどうなるか、といいますと、最小値になってしまいます。つまり、最大値と最小値がつながった、円のような構造となっているのですね。

石川氏、有限な時空の例を、地球を北に向かって進む、という例に置き換えて説明いたします。これのずるいところは、「南北」であって、「東西」ではないこと。北に進む、という行為は北極点から先へは進めませんが、西に向かって進む、というのであれば、有限な大きさの地球上を、果てしなく進むことができます。

さらには、北極点から先に進めない、という事実は、カントの、有限であればその先はどうなっているのか、という問いに対する解答も導き出します。つまり、「端に達すれば、その先は存在しない、したがって先がどうなっているのかという議論そのものが無意味である」が、カントの問いに対する答えとなります。まあ、カントはそもそも北極点云々という議論をしておりませんので、このお話は筋違い、かもしれませんが、、、

池内了著「物理学と神」によりますと、パラドックスとは論理が未成熟な点を突いた時に成立する、とのこと。カントがここに掲げますアンチノミーも、何らかの論理の未成熟によるものと考えることができるでしょう。で、第一アンチノミーは無限に対する論理の未成熟による、というわけですね。

面白いので、他のアンチノミーに関しましても、解決を試みてしまいましょう。

カントが第二アンチノミーとして掲げますのは、「世界における一切のものは単純な部分からなるのか、それとも単純なものは存在しないのか」という対立概念です。これはしかし、「単純」の定義が問題であって、私に言わせれば、それは相対的な概念です。つまり、合成されたものをその要素に分割すれば、それぞれの要素は合成物よりも単純でしょう。しかしそれでは、それぞれの要素がさらに単純な要素に分割できないか、といわれれば、多くの場合、それが可能であるのもまた事実です。

素粒子の世界では、高速度に加速した、すなわち高い運動エネルギーをもつ粒子同士を衝突させることで複合粒子を分割するのですが、あまりに速度が速い場合は、その運動エネルギーにより新たな粒子が生成いたします。つまり、あるところまでまいりますと、分割という概念そのものが意味を失ってしまいます。

また、「単純」といわれるものの振る舞いも、実に複雑である、という現実もありまして、たとえば水のようなものは、単純といえば単純なのですが、水の分子が形成しております構造は非常に複雑でして、液体状態での水の構造も非常に複雑ですし、固体状態の水であります雪の結晶のあの多彩な形状を見れば、単純さの中にも恐るべき複雑さが隠れていることが垣間見られると思います。

と、いうわけで、カントの第二アンチノミーは「問題の設定不備」ということで却下いたしましょう。

カントの第三アンチノミーは、これはなかなかの難問です。つまり、「自由というものは存在するのか、すべては自然法則による必然的な現象であるのか」という問いかけなのですね。

これに明確に答えることは、相当に難しく、おそらく現在までに確定した解はないのではないか、と思われます。しかし、私自身は、一応の解をもっておりまして、これについて以下に説明いたしましょう。もちろん、これは、あくまで私がそう考えていることであり、この考え方が正しいかどうかの判断は読者にお任せする、という前提でのお話です。

まず、自然科学の知見によりますと、人の精神活動は自然現象であり、人間の精神的機能のすべては物理法則に従う、といえます。つまり、自然科学の立場からは、人の行動はすべて物理法則に従う運動です。では、「自由」とは単なる錯覚に過ぎないのか、といいますと、これもまた間違いである、と私は考えております。

これは一見したところ、矛盾した物言いのように思われるかもしれませんが、そもそも自然科学というものは、人の主観を捨象したところに成り立っております。自然科学の目指す「客観性」、すなわち「だれもがそれを認める」という「普遍妥当性」は、客体、つまり主観を含まない「主観の対象である外界の事物」を叙述するものです。

だから、主観に属する諸概念は自然科学の領域外であって、その一つであります「自由」について自然科学の論理で議論することがそもそもの間違いである、というのが私の考え方です。

実は、今日の自然科学は、観測問題において、観測者の主観が入り込んでおりまして、これも少々問題のあるところです。自然科学の限界は、きっちりと押さえておかなければならない、というのがもう一つの私の主張でもあるわけです。

ヴィトゲンシュタインくらいの天才になりますと、このあたりのことはきちんとわきまえておりまして、たとえば彼の書「論理哲学論考」では、「5.632 主体は世界に属さない。それは世界の限界である」といたしまして、ヴィトゲンシュタインの論理世界は考える主体を含まない、と明確に宣言しております。

今日の自然科学は、何でも知りえるという、神のごとき視点から物事を語りたがるのですが、科学は所詮、人間の考えたものであり、しかも自然科学は人間の考えたもののごく一部の領域であるに過ぎません。そういう意味から、自然科学は、その領域を定める、次の二つの原理をしっかりと意識しているべきではなかろうか、と私は考えております。

第一原理:知りえないことを科学は語りえない
第二原理:主体に関する概念を科学は扱えない

カントの時代は、ニュートンの物理学が絶対的な真理であると考えられていた時代であり、カントがそれ以外の世界観があると考えなかったことは、やむをえないことであった、と私は思います。しかし今日、ニュートン物理学は、単なる近似法則であり、より正確に自然界を記述するものとして、相対論があり、量子論があります。しかもこれらが絶対的な真実であるとする考え方は少数派であり、これらの理論といえども発展途上にあり、検証されつづける「仮説」とみなされているのですね。

カントの第四アンチノミー、すなわち「世界は絶対的か偶然的か」という問題も主観にかかわる問題です。真実が一つであり、時の経過とともに変化したりはしない、という至極当然の原理を受け入れますと、いかなる現象もこれが起こった後の時点では確定しており、必然的であった、とみなすことができます。

しかし、人の主観は現在という時に固定されており、未来を知ることができません。その結果、未来は確率的にしか見通すことができず、偶然を無視し得ない、というわけです。