本日は森政稔氏の「変貌する民主主義」を読むことといたしましょう。
同書に対しての第三者意見といたしましては、朝日新聞の書評では好意的に紹介しておりますが、山下氏の評が核心を突いているように思います。
この本を理解するには、森氏の政治的立場を押えておく必要があるように思われます。これは、たとえば同書の最初の部分(p10)にあります文章から理解することができるでしょう。以下これを3つの部分に分けてご紹介し、簡単にコメントいたしましょう。(以下青字は引用部です。)
かつて民主主義の徹底を阻んでいると考えられた保守勢力は、雲散霧消して性格が良くわからないものになった。たとえば現在の自民党は、安保闘争時の岸内閣のように世論と対決するどころか、市場経済や自己責任論に立った改革を主張した小泉内閣の場合も、対北朝鮮強硬論などでナショナリズムに訴えた安倍内閣の場合も、世論を直接味方につけようとし、ポピュリズム的に沸騰した世論に支えられて支持基盤を形成した。
これはしかし事実でしょうか? かつての保守勢力は「民主主義の徹底を阻んで」いたのでしょうか? 安保闘争時の岸内閣も、民主的に選ばれた内閣であると一般的には考えられており、安保闘争当時の衆院選が民主主義とはいえない状況下で行われていたと主張するのであれば、民主主義を扱いますこの書物といたしましては、この点こそを論点としなくてはいけません。
また、かつて世論と対決していた保守勢力が「雲散霧消」したというなら、それは大変に結構な話であり、わが国はさらに一歩民主主義に近づいたと積極的に評価されるべきであるようにも思われます。
「世論と対決」する権力が成り立つためには権力の側が民主主義に対する制限を課していたはずですが、同書にはこの分析が欠落しております。この分析を行わない一方で、この変化が悪いことであるかのごとき情緒的印象を読者に与えているのは解せません。これでは、下手をすれば「権力が世論と対決することは良いことである」と受け取られてしまいます。
かつての権力対大衆という構図は失われた。ナショナリズムもまた、かつてのように天皇制や「国体」といった自分たちを超越した何物かへの信奉というよりは、自分たちの国際社会における既得権益やプライドを守るために、伝統や大国意識を利用しようとするものに変化してきている。こうした立場は、少なくとも民主主義と正面から対立しようとするものではなく、むしろ民主主義の中にある要素(国民の広範な支持)を取り込み、またそれによって民主主義を変質させるものともなっている。
この部分も上と同じでして、「権力」が国民の広範な支持を取り込んだということは、権力が民意に従って行使されているわけで、文字通りの主権在民が実現しているということであり、文章から読み取られる森氏の心情とは正反対の、大変に結構なことのように思われます。
こうして民主主義をめぐる「われわれ」とその「敵」との関係は激変した。民主主義はしばしば非難もされるが、その一方で民主主義の外部にはほとんど誰もいなくなった。いまや世論によって敵と名指しされるのは、たまたまそこにいた少数者(たとえば外国人や、税金の無駄遣いをしているとして非難される公務員など)である。公務員への非難(もちろんそのなかには正当なものもあるわけだが)は、かつてのように支配者としての公務員であるよりも、経済合理性が求められる新自由主義の時代に周囲と合わない行動をする少数者としての公務員に向けられている。
ここで「敵」と括弧つきで表現されているのは「権力」の意味なのでしょうが、かつては敵であった権力が「われわれ」の側に擦り寄ったということであるなら、それはいうなれば人民の勝利なのであって、何ら困ったことではないはずです。
「税金の無駄遣いをしていると非難される公務員など」は、税金の無駄遣いをしているならば非難されて当然であり、それが不当な非難であるというならば、その非難の不当性を主張すべきです。そのように議論を深めることが民主主義の重要な要素なのではないでしょうか。
また、「経済合理性が求められる新自由主義」が民主的手続きに基づいてわが国の政策とされたのであれば、それに合わない行動をする少数者は、著者が例としてあげておりますスト破りをする労働者と同様、非難されてしかるべき存在であるということになります。
とはいえ、誤読を恐れずに深読みをいたしますと、著者が上のように書きたい理由は大いに理解できるのでして、たとえば社民党にとっては保守政党が担っている政権は「敵」であり悪であってしかるべきなのですが、非民主的要素であった「世論と対決」するということをしなくなってしまい「われわれ」としては大いに困ったということはよく理解できます。
これは、社民党にとっては大いに困った状況でしょうが、国民の大多数にとっては、民意が反映された政治が行われるようになったわけで、大変に喜ばしい状況であるといえるでしょう。
森氏にとりましては「新自由主義」は、それを国民が支持しようがすまいと、間違った考え方であり、新自由主義に反する行動をする公務員の行為を非難してはならない、とおっしゃりたいのは良くわかります。もちろんこれらが私の誤読である可能性は留保いたしますが、そのように考えますと、同書はよく理解できます。
しかし、「新自由主義」は小泉氏が郵政選挙で民意を問い、国民の圧倒的支持を得ているわけであり、民主主義に従うなら当面のわが国の基本政策は新自由主義に立脚すべきなのではないでしょうか? これを否定してしまっては、民主主義がなんであるのか、わからなくなってしまいます。
まあ、出だしからあまり議論してしまいますと、スペースの限られた楽天ブログでは肝心のことが書けなくなってしまいます。ここは、著者のスタンスを確認するにとどめ、内容のご紹介を続けたいと思います。
同書は4章構成の本文と、序章、補論からなっております。章立てとその概要は以下のとおりです。
序章 現代世界と民主主義:矛盾をはらんでいた共産主義(人民民主主義)は地上から消滅したが、ニューレフトが問いただした「反管理主義」は、その後の政治思想に大きな影響を与えました。その後、小さな政府を目指す新保守主義が政治の主流に踊り出ました。このような流れの中で、民主主義そのものについて論じたい、と著者は本書の目的を規定いたします。
第1章 自由主義と民主主義:自由主義と民主主義は別物であり、相反するのだという見方もあるのですが、自由がなければ民主主義も成立しない、という関係にあります。ここで、自由主義は、所有と経済行為にかかわる自由に主眼が置かれます。また、民主主義は無制約ではなく、一般的なルールに限定されるとして、次のように述べます。
ハイエクにおける民主主義の制限には、個別的利益が民主主義的決定に入り込むのを遮断することが含まれている。繰り返し述べたように、これは重要な点なのだが、このような民主主義観はすでにある程度はできあがった民主主義的政治制度を前提とすることによって、民主主義の歴史において、排除された者の抗議といった側面を正当に評価できないという問題を含んでいるのではないか。
ハイエクの民主主義に対する制限は、私には妥当だと思われるいっぽう、上の部分での著者の主張には無理があるように私には思われます。すなわち、個別的利益が民主主義的決定に入り込むことを認めてしまいますと、排除された者(少数者)の利益は永久に排除されたままになってしまうおそれがあるのですね。
排除された者の個別的利益を多数決に基づく民主主義的決定によって取り戻そうというのは土台無理な話であって、むしろ、一般的、普遍的なルールとしての「平等」なり「人権」なりを、自由な議論により多数のものに認めさせることによってこそ、排除された者の利益を回復することができるのではないかと思います。
第2章 多数と差異と民主主義:この章では、民主主義の持つ「多数者の暴政」に対してマイノリティの権利をいかに確保すべきかが語られます。そして、マイノリティに配慮したリベラルが力を増しますが、その政策は経済的に行き詰まったとして、著者は次のように述べます。
20世紀の「リベラル」は、利益政治のパラダイムをもとに、社会的に不利な立場にある人々に利益を分配して平等化を進め、また少数者をその利益を代表する集団を通して政治社会へと統合しようとした。ニューディールがかなりの程度成功し、60年代まで継承されたこの種の政治の意義は決して小さいものではない。
しかし、このような政策は、経済の拡大によって国民全体の利益が増大し、政府がこのような少数者の生活の向上のために支出できる税収が十分にあることを条件として成り立つものであった。このような好条件が失われたあとでは、政府への幻滅ばかりが増幅され、またエスニック集団間などの反目が激化して、政治統合はさらにむずかしくなった。
結局のところ「リベラル」が成り立ったのは、いわゆる「ばら撒き福祉」が可能であった時代であり、経済成長が頭打ちとなりますと、これまでのようなリベラル路線は継続が困難になった、ということでしょう。
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