黒坂岳央氏の1/15付けアゴラ記事「人生を変えるのはやる気ではなく好奇心」へのコメントです。
「やる気」というと、体育会系的な怪しげなイメージがあるのですが、その意味は「士気(モラール:morale)」で、集団に貢献しようという、社会的な意味を含みます。これは、MacIver のコミュニティ意識(我々意識,役割意識,依存意識)の重要な要素なのですね。
今日の社会は、明文化された約束事で成り立っている契約社会で、テンニエスの言う「ゲゼルシャフト」に相当するのですが、人間同士のつながりに基づく自然発生的な共同体(ゲマインシャフト)の重要性も指摘されております。
そもそも、法にしたところで人間のもつの自然的な倫理観がベースとなっております。倫理は論理世界の外側にあるとヴィトゲンシュタインも認め、「倫理と美学は一つである」などと語っているのですね。
この感覚、ハンフリー・ボガートが映画カサブランカで演じたリック・ブレインの行動を見ればわかりやすい。ダンディズムとはやせ我慢のこと、は外しているかな? つまり、それは美学であり、他に良く思われたいという社会的欲求であり、倫理(morals)でありアリストテレスの言う倫理(アレテー:人の良く生きる道であり卓越性)であり、誇り(pride)なのですね(こちらをご覧ください)。
新しいものを生み出す力は、既に言語化され論理化されたものを扱う理性だけでは不十分で、カントの重視する「悟性」が大事なところですが、その駆動力は、個人的には好奇心も確かにあるけれど、社会的にはコミュニティ意識、とりわけモラールの部分が大事です。そういう意味では、「やる気」の重視も意味がある。ただし、形式に走ってしまうと何の意味もない。このあたりは注意が必要です。
1/21追記:美学と基礎を同じくする倫理に、マックス・ヴェ―バーの「英雄倫理」がありました。これは、「平均倫理」に対するもので、チャレンジ精神とか、主体的(積極的)行動といったらよいでしょうか。ヴェーバーは、資本主義の根底に、勤勉を旨とする、プロテスタンティズムという宗教的倫理感情があると説くのですが、プロテスタントが理想とする「禁欲」ではなく、英雄倫理の発露を資本主義に必要な要素と考えていた様子です。この英雄倫理も、ある種の美学のなせる業。モラールとも通底するように思われます。
以前のブログにも書いたのですが、英雄倫理はニーチェの言う「ディオニュソス的なるもの」と通底し、平均倫理は理性的な「ソクラテス的なるもの」に対応しそうです。あるいは、平均倫理はニーチェの「畜群道徳」ということになるのかもしれない。
結局のところ、資本主義的組織は契約関係に基づくゲゼルシャフトに他ならないにせよ、その中には、美学なり英雄倫理に支えられたコミュニティー的要素、ゲマインシャフト的性格も併せ持つ必要があるのではないかと思います。それは、理性的推論から一歩飛躍したインサイトを重視する、石井淳蔵氏が「ビジネス・インサイト」(解説はこちら)の中で紹介するあり方であるのかもしれません。
ほどほど