まあ、血液型と性格の関連については、ココでは議論しません。でも、少数者を悪く言う、というのは、ちょっと頂けない話ですね。
最近の日本のあちこちに出てきている、人を一つの型に入れようという動き、コレは、その集団にとっても、危険なことなのですね。国旗、国歌を強制する動き、陛下自らが、強制はいかがなものかと発言、陛下ご自身も、この危険性を良くご存知なのですね。
学校教育、生徒に正しい知識を覚えさせる。真実は一つ、ならば、みんなが同じように考えるのが究極の目標となります。でも、不確実な事柄も多い。何が正しくて、何が正しくないか、なんてことも、一概に言えないことが多々あります。
わが国の憲法では、思想信条の自由を保障しているのですが、自由ということは、色々な考え方があるということが前提なのですね。一つの考えしか認めない、というやり方は、今の日本では、間違った行為なのです。
では、いろいろな考え方があると、何が良いのでしょうか。
まず、人間は間違うことがあるということ、色々な考えがあれば、それを比べ、議論を戦わせることで、間違いに早期に気付いたり、考えを変えることもできます。コレができない独裁体制、破綻する例が多いのですね。
でも、もっと大事なことは、自分が何者であるかがわかる、ということ。人は自分と違う存在に出会って、自分が何者であるのかを見出すのですね。
多くの社会では、大人になるための通過儀礼として、異質な他者との交流の機会を設けているのですね。
学校教育の場にも、本来は、他者との差異を見出す、他人と異なる自分が存在することに気付かせる、という項目が必須であるはずなのですが、今の社会、みんな一緒、が原則になりつつある。
これじゃあ、生徒は育たない。引きこもり予備軍を手間隙かけて作っているようなものです。で、自分たちと違う人を排斥する。イジメの一つの類型も、そこに生まれてきます。
あえて言うなら、武者修行というか、他人の間で揉まれてくる、というか、まあ、そういった機会、積極的に作っていきたいものですね。
ま、武者修行に出るというのは大変ですけど、自分たちの社会に来た異質な人、コレは大事にしなくちゃいけないのですね。逆にいじめちゃう人が多いのだけど。
昔の村落共同体、そこのヒト達は、みんながお互いに顔見知り、似た考えの持ち主。で、たまにムラを見知らぬ人が訪れるのですね。豊かな村は客人を大切にする。マレビトなどというわけで、宿を提供し、酒食でもてなす。
マレビト、色々な話をしてくれる。他所のムラの話し、新しい技術、社会の動き、などなど。こういう情報、ムラにも貴重、でもそれ以上に、村のヒト達、マレビトの話を聞くことで、自分たちのムラを知るのですね。
まあ、そんな感覚で、集団の中に紛れ込んでいる異質な他者、大事にしたいものだと思いませんか?
外国人と仲良くすると、何よりも日本のことが見えてくる。異質な他者と触れ合うことで、何よりも自分自身が良く判る。自分の人生、多少は、先が見通せるようになるというものです。