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大きくなると、、、

ネットのあちこちに「電子の村」ができている、という話を以前書きました。確かに、趣味や計算機などの技術の、特定の領域の話題を扱う場所には、温かみの溢れたコミュニティができやすい。だけど、政治、宗教、ネットの管理など、話題の幅が広がるテーマになると、議論の場所が荒れやすい、という傾向があります。

特に、少人数で議論している間は、和気藹々と会話が弾んでいても、参加者が多くなるにしたがって、けんかが始まったり、場違いなメッセージが増えるなど、荒れるケースが増えてくるんですねえ。まあ、人数が増えれば、変な人もそれだけ入ってくる可能性が高くなるから、一般的に、これは、当たり前、ともいえるんですけど、単なる確率以上の問題もありそうです。

村落的共同体は、多くの場合、長老と呼ばれる人たちがいます。長老は、その人格的高潔さや、知恵の深さが多くの人たちに認められ、その判断に村の運営がゆだねられる、とまあ、単純に言えばこうなります。

村落が幾つか集まって都市ができたときも、最初は長老たちの判断で、都市の運営がゆだねられていました。しかし、人が増えてくると、人々が長老の人柄に触れる機会も少なくなるし、ある人が信頼する長老を他の人たちは信用しないと、まあ、そんな状況が生まれてきます。

そのうちに、広場で演説をする人たちが表れ、他人や時には長老に対する非難も行われます。このとき、その言説の根拠となるのは、理論ですね。哲学者や思想家が活躍します。理路整然とした意見には同調する人も多くでてきて、力を持ちます。そうして生まれたのが、行政機構や法律、このような仕組みがしっかりできれば、意見の異なる人たちも、一つの制度の中に共存することができるわけです。

しかし、長老たちが持っていたのは、単なる判断力ではなく、人間味溢れる判断であり、共同体の人たちの心をつなぐ絆の役割を果たしていたのですね。それが失われると、法律の条文をたてに非道を行う商人が出てきたり、社会から温かみの溢れる人間関係が失われたりと、都市を巡る問題がいろいろと出てきてしまうのですね。

じゃあ、長老支配を復活すれば、問題が解決されるかといえば、そんなこともありません。このやり方が頓挫したのは、社会の規模が大きくなって、複雑になりすぎたため。それを無理に単純化して、長老に全てをゆだねると、ナチスドイツみたいに、なりかねません。

結局の所、大きな社会を律するのは、冷たい規約でしかありえない。人の心を満足させるのは、その中に多数形成されたコミュニティが担う役割、ということになるのでしょう。

このような状況下で、我々は二つのことを考えなくちゃいけない。一つは、全体を律する冷たい社会は、どのようなものであって、それに対して、個人はいかに関わるのが良いのか、ということ、もう一つは、コミュニティというものはどんなもので、どのように作っていけばよいのか、ということこの二つがうまく動けば、この世界、少しは住みやすくなりそうです。