第一に、学校は学問を学ぶ場、と考える人が多いかもしれませんけど、今の高校までの学校教育、学問のダイジェスト版、映画の予告編といったところ、広く、浅くは学問とはなりえません。学問の真似事であるとしかいえない。
大理石がどういう種類の岩かを覚えることは、学問とは、遠く隔たっている。多項式の因数分解が数学の名を冠して教えられているんですけど、その内容は、公式の記憶。こんなのが数学だと思われると、数学者は困惑するでしょう。化学にしたところで、食塩水の濃度の計算なんて、まあ、ケミストは当然のように計算するんですけど、これが化学だなんて思っちゃいない。こんな知識も、化け学の専門家にならない限り、まず、不要な知識です。
むしろ、学校で覚えるべきは、学問とは何か、がわかればよく、学問に取り組む上で大事なことは何か、ということをきちんと学べばよい。そこのところ、わかっていない人が多そうな感じがするのは、気のせいでしょうか?
第二に、特に低学年では、社会との付き合い方を学ぶというのが大きなテーマで、現在私たちを取り巻く社会は、一体どのようになっていて、その中で生きるうえで、何をしなくちゃいけないか、どうすればよいか、ということ。
まあ、これ、知識偏重という問題があって、国会議員になれる年齢、なんてのは、立候補しようかと考えた段階で調べればよい問題、立候補するつもりのない人を含めた、全国民が記憶する必要はありません。
社会との付き合い方で、必ず覚えておかなければいけないこと、それは、二種類の社会との付き合い方です。日本の社会、それがわかっていない人が多い。だから、公私混同がそこら中で、、、
二種類の社会、その一つは、仲間社会、コミュニティーです。コミュニティーに関しては、また日を改めて書くつもりですけど、それぞれの年代に応じて、仲間社会と旨く付き合い、仲間社会を円滑に運営し、必要ならば仲間社会を作り出す、そんな能力が、すべての人に必要です。
学校教育がまずしなくちゃいけないことは、この教育。それがうまくいってるなら、いじめの問題など起きないはず。クラブ活動や、総合学習など、まあ、この手の機能は学校にあるんですけど、どれだけ目的意識をはっきり持って、これらの活動が行われているかは疑問ですね。
もう一つの社会は抽象社会。学問の方法論も、実は、抽象社会との付き合い方です。この能力、開かれた社会と匿名的に関わる能力でして、文化をことにする人たちとも、コミュニケーションできる力を持たなくちゃいけない。これは、ビッグになるためには必須の能力。本当の意味で、社会に参加するためにも必要ですね。
抽象的コミュニケーション能力は、異質な他者がいることを覚えなくちゃいけないし、異質な他者との間にも、自分と共通する認識がある、ということを知る必要があります。それが何か、これが直感的にわからなくちゃいけない。
うわ~! 長くなっちゃった。続きはまたということに致しましょう。