「言葉を生み出す本能(上) (下)」という本をこの日記の最初のほうで紹介しましたけど、人間には、言葉を使うための機能が、生まれながらにして脳に準備されているそうです。言語は人間の本能的能力、なんですね。
言葉には二つの役割があります。一つは、コミュニケーションの道具として、もう一つは、思考の道具、特に、論理的思考に欠かせない要素なんですね。
言葉は、人と人とのコミュニケーションの、主要なチャネルです。表情や仕草など、言葉を使わない、ボデーランゲージもありますし、絵画や音楽、彫刻といった表現も、他人に何かを伝えます。でも、複雑な情報を、間違いなく伝えるには、言葉が一番、特に、抽象的な概念を伝えようと思ったら、言葉しか使えません。
人の精神活動を表す言葉に「ロゴスとパドス」という言い方をするときがあります。パドスは感情ですけど、ロゴスは知性、論理性、そして、言語的活動を意味します。人間がモノを考えるとき、多くの場合は、言語を使って考えるのですね。
この二つの言葉の役割、実のところ、言葉の持つ同じ機能の裏表、ではあります。つまり、言葉によって、抽象的概念を表現することが出来る。だから、自分が考えるときも言葉を使うし、他人に伝えるときも言葉で伝える。コンピュータの中の情報が特定の符号で表現されて格納され、その表現を用いて、演算処理され、伝達されるのと、よく似ていますね。
そもそも、自分で考えるといったところで、ゼロから自分が考えてるのではなく、周りの人たちとの会話を続ける過程で、考えているんですね。だから、考えるという行為、すべてが個人の中でまとまっているものでもない。ネットワークを通じて、たくさんの計算機が情報交換しながら計算するような、そんな処理が、ヒトの考えるという行為には、近いといえるのでしょう。
さて、学校のカリキュラム、という話題との関連で言えば、言語的能力を持つつこと、これは、開かれた社会と関わる第一歩です。仲間内の、暗黙の了解に支えられたコミュニケーションを超えて、誰にでも理解可能な表現力を身に付けることは、広い世界と付き合う上で、必須の能力。学校教育が目指すべきは、この能力の獲得です。
もちろん、これ、肩肘張った文章じゃなくても良いのですね。漫画やアニメ、誰にでも理解できる。でも、その表現は、全然、固くない。ただ、言葉の持つ、一般的意味を押さえておくこと、仲間内の暗黙の了解と、広い世界の常識を、分けて把握しておくこと、なんてのが、抽象的コミュニケーションには必要なのでしょう。
国語の本当の目的は、ここにあるんですね。難しい漢字の書き方を覚えるなんて、虚しい話。いまや書き物はパソコン、ワープロもあるし、手書きの必要、あまりない。
何が生徒たちに必要なことなのか、それが、教育を考える上での第一歩。どうも、現在のカリキュラムを見ていると、その肝心の視点が、どこかに置き去りにされているような感じがしてならないのですねえ。