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デカルトの暗号

ダヴィンチ・コードという小説()や映画が話題になりました。この話、レオナルド・ダ・ヴィンチの作品に、当時のカトリック教会を批判する内容が含まれている、一種の暗号である、という仮説をベースとしたお話です。これに関しては以前書きましたのでそちらをご参照ください。

最近、デカルトの書物をいろいろと読んでいるのですが、デカルトとカトリック教会との間にも対立関係があり、デカルトの書き残したものは素直に読んではいけないのではないか、との疑問を抱くようになりました。つまり、デカルトの書き残した書物から、バチカンの影響を差し引いて、デカルトの真意を読み解かなくちゃいけない。ある種の暗号解読が必要なのですね。

デカルトという人物、哲学者であると同時に、当時第一級の自然科学者です。ガリレオに対するバチカンの対応をみて、地動説を含む書物を、出版直前に書き直す、なんてことをした、ということは先週のこのブログにも書きました。この経緯、白水社版の方法叙説から少し引用しましょう。

ところが今から三年まえ、私はこういうことをすべて含んでいる論文を書きあげて、印刷屋の手に渡すために見なおしを始めていましたが、そのとき次のようなことを知ったのです。それは、私が敬服するかたがたが、しかもそのかたがたの権威が私の行動に及ぼす力は、私自身の理性が私の考えに力を及ぼすのにほとんど引けをとらないのですがほかのある人によって少し前に発表された<自然学>についての一つの意見を否認した、という知らせです。

この<自然学>についての一つの意見、とは、ガリレオの地動説でして、結局デカルトはこの論文の出版をあきらめ、手直しをした論文を後に発表しているのですが、この引用部で赤字で書いた部分が注目されます。

つまり、本を書くという行動は、デカルトの理性によってなされいるのですが、そのかたがたの権威も、自らの理性に引けをとらないほどの影響を及ぼしている、ということを述べているわけですね。

と、いうことは、デカルトの書いた書物を読む際、デカルトの理性の語るところを読み取るためには、そのかたがたの権威による部分を取り除いて読み解かなくてはならない、ということを
意味します。

そもそも、方法叙説のこの記述、まかり間違えば火炙りにもなりかねない危険思想をデカルトが抱いていた、なんてことを類推させるものです。こんなことは本来、一切秘密にすべきこと。それをしゃあしゃあと書く。そこにはデカルトの強い意志が含まれているはずです。

この記述に含まれるデカルトの真意、それはいったい何でしょうか。それは、自らの書物を、後世の人たちに正しく読み解いてもらうための、暗号解読のキー、だったのではないでしょうか。

デカルトの哲学は、我思う故に我あり、エゴ・コギト・エルゴ・スムという言葉が有名で、その意味は、あらゆる存在を疑ったとしても、疑う主体の存在は否定できない、ということです。

次に、外界を見渡すとさまざまな事物の存在を知る、これらは、自らの主観の中に観念として存在するわけです。

この主観の中に存在する概念というのが、およそほとんどの事柄の存在のあり方で、目に見える物体(たとえば蜜蝋)も、感覚によってではなく、独り知性によってのみ知得される、と主張します。

更には、共通概念を見出す、というのですが、この共通概念とは、他者と共通の概念でして、ほとんど現象学で言う間主観性と同じ概念です。

で、次に神の観念を見出すのですが、この説明にはまったく説得力がないのですね。確かに、先週解説したように、絶対的に確かな真の概念があるとするなら、あらゆる概念は思惟する主体の中に現れるものですから、絶対的な正しさを持つ思惟する主体が存在しなくてはいけません。しかし、デカルトはそんなことは言っていないわけで、そもそも絶対的に正しいもの、などというものは、最初から疑ってかかっているわけです。

自然科学者としてのデカルトは、真に物理的に存在する、といえるのは、エネルギーの空間分布だけであり、色や形といった属性は、我々の概念として存在するものである、と考えます。この文章はデカルトの言葉を現代的に表現しなおしたものですが、これは慧眼と言わざるを得ません。

その概念を他者と共有し、より確かな共通概念にしていく。これは自然科学のあり方そのものであって、優れた自然科学者であるデカルトは、そのような手続きを、よく理解していたのではないかと思うのですね。

つまりは、デカルトの哲学、現象学や構造主義を先取りした、文化相対主義の思想にまで到達していたのではないでしょうか。その思想の中では、唯一絶対の神の存在は否定されるしかありません。

哲学的思考の中では、神の存在は疑い得る、これがデカルトのたどり着いた結論だったのではないでしょうか。

もちろんこんなことは、異端を火炙りにする、なんてことが日常的であった17世紀の世界で発表できるわけもありません。幾重にも張り巡らされた、難解で説得力のない神の存在証明、それはそのかたがたの権威からわが身を守り、出版を可能にして自説を後世に残すための防壁であった、とも読めるのですね。

ある種の暗号化を施されたデカルトの書物、その中に秘められた彼の理性の成果、それは、20世紀にして初めて人類が到達した英知と、ほとんど同じ水準だったのではないか、それが白水社版方法叙説/省察に取り組んで3週目にして得た私の結論です。

なお、当時も今も、カトリック教会の存在を否定する理由はありません。デカルトも哲学原理(岩波文庫版)の最初のあたりに書いています。

しかしこの疑いは、ただ真理の観想に限られねばならない。何となれば、実生活に関しては、我々が疑いから抜け出すことができる前に、しばしば事を為すべき機会の過ぎ去ることがあるから、我々は余儀なく、単に尤もらしく見えることを採用し、或いは二つのことのうち一つが他に比べて尤もらしく見えない場合にも、時にはいずれかを選ぶことが珍しくはないからである。

実生活の場は、真理探究の場ではなく、人々が苦痛を逃れ、幸福を追求すべき場であるわけですね。だから、実生活においては、真理を求めるあまりすべてを疑ってかかるよりも、さしあたり良さそうな道を選んで事を為す方がよほど重要であるわけです。

だから、デカルトの場合には、権威あるかたがたの判断が、己の理性の知得するところに比べて尤もらしく見えない場合にも、その判断を受け入れて本を出版する、という道もまた正しい、ということになります。ソレデモ地球ハ回ッテイル。つまりは、それも正しい道、なのですね。

とはいえ、宗教的対立が人類の不幸を招く要因となっている現在、神の概念に懐疑の目を向けることも、また重要なことではなかろうか、と思うのですね。

デカルトの残した書物、デカルトの理性によってなされた部分とそのかたがたの権威故になされたものと、きちんと切り分けて読むこと、これはそのための一つのアプローチとなりそうです。