昨日のブログにちょっと書きました、意識は、計算機でいうなら、アキュムレータに相当する、というお話に付きまして、少々追加しておきましょう。
その前に、人間の脳と同様の機能を持つコンピュータの見積もりをしておきます。
人の脳にありますニューロンの数は、人口に膾炙している140億個、という数字がありますが、年を取るにしたがってだんだん減っていくのですね。つまり、生まれたての赤ん坊でもっと多いのですが、老人になると50億個程度になってしまいます。
で、知能を決めていますのは、ニューロン同士の接続、シナプス接合でして、これも数はさまざまなのですが、人口に膾炙している数字では8千個。つまり、14G x 8k の接続がありまして、その総数は、おおよそ100T(テラ:1兆)箇所。一箇所あたり10バイトの情報が必要であるとして、1000 TB、即ち 1 PB(ペタバイト)のメモリーに置き換えられる、というわけです。
最近のパソコン、1GBくらいのメモリーを持つマシンはザラにあるのですが、1 PBはこの百万倍。こんなマシン、想像することすらできない、と思われるかも知れませんね。
でも、半導体の世界には、ムーアの法則というのがありまして、半導体の集積度は2年で2倍になる、というのですね。
2年で2倍を繰り返しますと、20年で1000倍、40年で百万倍となります。つまり、40年もいたしますと、人の脳に匹敵する機能を持ったマシンを、個人が机の上に置き、ゲームをしたり仕事に使ったりする、というわけなのですね。
まあ、研究機関ですと、個人の持つデスクトップパソコンの千倍程度のマシンは持つことができるはずですから、40年も待つ必要はなく、20年程度で充分であろう、と予想できるわけです。
さて、人工知能のハードウエア、手足をつけたりいたしますと、コストも掛かりますし、暴走したときが怖い、という事情もあります。人工知能、人と知的な対話ができれば充分ですので、ネット経由のメイルかチャットでも充分です。
まあ、受けを狙うなら、ディスプレーに人工知能の顔がCG表示され、テレビカメラでこちらの映像を取り込みながら、音声で会話する、ということでしょう。テレビ電話みたいなものですね。
こんな装置でも、家のあちこちにディスプレーを取り付けておき、切り替え使用をいたしますと、さながら人工知能、家の中を歩き回ったようになりますし、ネット経由で接続すれば世界中のどこへでも、瞬時に移動できるわけですね。
まあ、こんな話をしていると本題に入れません。意識=アキュムレータ仮説にまいりましょう。
意識=アキュムレータ仮説は、人の身体をハードウエアに、心をソフトウエアに置き換える、唯物論的意識解釈に対して考えられたもので、その根底には、ハードもソフトも相互補完的存在であるという、今日のコンピュータ技術の現状認識があります。
で、ソフトウエアに代わる、心、特に意識に相当する存在を考えますと、そこにアキュムレータというものが浮かび上がってくるわけです。
コンピュータにおけるアキュムレータは、演算の対象となります数値を一時的に格納する記憶装置でして、メモリとの入出力機能と、論理演算、数値演算を行いますALUと呼ばれる回路に接続されています。最近のCPUでは、アキュムレータとは呼ばずにレジスタと呼ばれ、数多くのレジスタからメモリとのデータのやり取りや、これらレジスタを介しての演算処理が行われるようになっています。が、ここでは、このようなレジスタ群を含めて、アキュムレータ、と呼ぶことにいたします。
で、このアキュムレータが意識に相当する、というのがこの仮説の主題なのですね。
もちろん、人の脳とコンピュータは、大きく異なっています。最大の相違点は、人の脳は、あらゆる場所でニューラルネットの並列的情報処理が行われているのに対し、コンピュータにおける情報処理はアキュムレータ部分に限定されています。とはいえ、周辺装置にはそれぞれCPUをもつサブシステムがあることも、珍しいことではないのですね。
で、人のアキュムレータなのですが、非常に複雑な情報がロードされ、さまざまなバックアップサブシステムに接続されています。まあ、これをイメージするに、ウエブページと、そのあちこちを操作してクリックする自動的に動作するマウスをイメージしていただければわかり易いかと思います。
まず、人のアキュムレータには、五感からの情報がアップされています。これも、一次的な処理が完了した情報でして、たとえば視覚であれば、網膜に映った像ではなく、眼前の人の存在などが、概念としてロードされてくるのですね。
人が街中を歩いているとき、視覚情報は一次処理され、視界にある人々や、電信柱などの障害物、地面のでこぼこなどが意識に上がってきます。その多くは、ほとんど自覚することのないままに処理され、障害物を避け、躓かないように足を動かすわけですね。
もちろん、歩いている人は、目的地を知っているわけだし、そこにいたる経路も知っている。でも、そういったことを大して意識しなくても、間違いなく街中を歩き、たいした危険にも遭遇せずに目的地まで達するわけです。このようなことが可能であるのは、歩行を司る無意識的な情報処理機能があり、ある種の地図情報をもっており、これらをベースに、最適な経路を探索し、決断を下す機能がないといけないのですね。
まあ、そういった、論理的判断処理機能も、人のアキュムレータには接続されている。でも、その論知的判断処理機能自体は、人の意識の領域外にあり、論理が対象にすることは困難である、ということをヴィトゲンシュタインは語っていたわけですね。
さて、ヴィトゲンシュタインによりますと、超越論的存在は、論理そのもの以外に、倫理とか、これと同一視されている美学、などがあります。まあ、私に言わせれば、倫理と美学は別物。美学はどちらかといえばダンディズムに属するものでして、時には倫理も否定されてしかるべき、なのですね。
ま、こんなことを書くと問題になるかもしれませんから、あまり深くは追求しません。
いずれにせよ、意識の世界に、倫理なり、美学が何らかの影響を与えていることは確かでして、これらも意識を司るアキュムレータ部分に接続されていることも確かなのですね。
その他、フロイトの発見になる無意識の世界も同様ですし、これと似てはおります、感情の世界も、まず間違いなく繋がっているのでしょう。
で、意識を司るニューラルネットワーク、これらの厄介な諸接続を前にして、あるときにはてきぱきと処理をこなし、あるときには大いに悩む、というのが、現に人の心の中で行われている現象なのではないか、と考えておる次第です。
なぜか寝不足で、考えがまとまりません。何日か後に、もう少しまともな文章をアップいたします。