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オブジェクト指向の哲学(その2)

(その1)の続きです。楽天のブログは1万字しか書けませんので、分割して書き込んでおります。


3. 精神を人工的に再現する可能性

3.1 必要なハードウエア規模の見積もり

人の精神は脳の働きによるものと考えられており、脳の生理的メカニズムも徐々に明らかになってきた。しかし、脳の働きはニューロンの働きとして説明され、物理法則に反する現象は見出されていない。

脳の内部で行われていることが単なる物理現象であるならば、同じ働きをもつ装置を人工的につくり出すこともできると考えられるが、問題はその複雑さである。

人の脳に存在するニューロンの数は、人口に膾炙している140億(14G)個、という数字があるが、年を取るにしたがって徐々に減少し、老人で50億個程度といわれている。

知能を決めているのは、ニューロン同士の接続、シナプス接合で、その数は一定ではないが、人口に膾炙している数字で8千(8k)個という数字が知られている。これを前提に計算すると、脳全体で14G x 8k の接続があり、その総数は、おおよそ100T(テラ:1兆)箇所となる。それぞれの接続につき、接続先と、ニューロンの興奮を伝達する際の係数を記憶する必要があり、これに一箇所あたり10バイトの情報が必要と考えると、1000 TB、即ち 1 PB(ペタバイト)のメモリーが必要である、ということになる。

最近のパソコンは1GB程度のメモリーをもっており、1 PBはこの百万倍ということになる。この規模は、現段階では現実的ではない。

しかし、半導体の世界には、ムーアの法則というのがあり、半導体の集積度は2年で2倍になる、と言われている。これを繰り返すと、20年で1000倍、40年で百万倍となり、40年後には人の脳に匹敵する機能を持ったマシンを、個人が所有し、自由に使いこなす時代となるものと予想される。

もちろん、人工知能を扱う研究機関であれば、個人用のパソコンの千倍程度のマシンを用いることは可能であり、20年後には人工知能を実現するためのハードウエアを研究機関が入手できる、と予想される。

3.2 脳の構造と意識の所在

ニューラルネットワークによる脳の情報処理は並列処理である。すなわち、それぞれの感覚器官からのインパルスを処理するための専用のニューラルネットワークが存在し、さまざまな情報が同時並行的に処理される。

しかし、意識の働きは、同時になされるものも多いが、複雑な思考は一つずつ、順を追ってなされる。少なくとも、自分自身で思惟の過程を内省すれば、そのようなシーケンシャルな情報処理が意識の特殊性であることが理解されよう。

人の脳のどの場所でどのような情報処理が行われているか、ということに関しては研究が進められており、視覚情報を処理する部分、言語を扱う領域、感情、記憶を扱う領域などが特定されている。この中で、意識にかかわる情報処理は「脳幹網様体賦活系」と「広汎性視床投射系」が担っていると考えられている。

なお、記憶に関しては、人の脳の古い部分であり、感情や反射的行動にかかわる情報処理を担っている大脳辺縁系が担当していると考えられている。なるほど、記憶は知的活動というよりは、人の動物的行動にも必要な能力であり、餌の獲得にも、帰巣行動にも、危険を学習する上でも必要な能力である。

脳幹網様体賦活系には、感覚神経路からのインパルスが入力され、刺激が強いと意識の水準が上がり、刺激が弱いと意識の水準が下がることが知られている。また、網様体から大脳皮質につながる経路には二つあり、ひとつは視床中心部経由の「広汎性視床投射系」で、ここが意識の座ではなかろうかとと考えられており、もう一つの経路は、大脳皮質全般を制御していると考えられている。

自らの意識を内省してみれば、たしかに意識のうちに感覚があり、異様な状況が発生すればすぐに意識がその感覚に集中する、という実感がある。

意識は、計算機におけるアキュムレータのように、そのときそのときで、異なる事象が扱われている。おそらく意識を司るニューラルネットワークには、一時的な接続が形成され、注目している事象にかかわる記憶を呼び戻し、論理的判断を司る部分や価値判断を司る部分との間の回路を形成して情報処理が進められるものと思われる。

論理判断能力や価値基準、倫理観、美学といった人の精神的な能力をサポートする部分は、意識の外にあり、多くの場合は意識からはアクセスできない、いわゆる無意識の領域にあるものと思われる。これら無意識の領域は、あるものは生まれながらにして形成されており、あるものについては繰り返し学習を行うことによって形成され、あるものは単発的な、しかし、強いインパクトを与えた事件によって形成されるのではないかと筆者は考えているが、この部分に関しては、今後の研究を待たねばならない。

3.3 大脳機械論と自意識の矛盾

人の脳が一種の機械として動作しているということを受け入れると、自らが自由意志をもっているとの考えと矛盾するように思われる。すなわち、機械の動作は、文字通り機械的であり、人間精神の生き生きとした実感とは相容れないように思われる。

一方で、大脳生理学者が脳を分析するとき、そこに見出すものは機械的構造体であって、生き生きとした精神は見出すことができない。

自分自身が自由意志を持っているという主観は、他者と共有されており、人は互いに、他者もまた自由意志をもっていると考えている。すなわち、人が自由意志を持つということは、本論の定義による客観的事実である。人は自由意志をもつがゆえに、罪を犯せばこれを罰することが社会的にも正当化されている。

しかしながら、人が自由意志を持つと実感することと、人の脳が機械的に作動しているということの間に、何の矛盾点もない。人の脳が機械的に作動しているにせよ、人はその内容を知ることができず、意識に上がった情報を通してしか思惟を進めることができない。その意識に上がる情報は、不十分であり、その人の生きた過去のさまざまな蓄積(その多くは無意識の領域にある)に強い影響を受けているはずである。

このような不確実な状況下で思惟を進め、決断を下すとき、人はそれを自由意志の働きとしてしか実感できない。仮に完全な人間が存在するとすれば、彼は常に最適な決断を下すはずであり、自由意志というものはありえない。

大脳機械論と自意識が相容れないと思われるもう一つの理由は主観の存在による。自己の主観は全てに優先して存在し、他者の存在も、客観(本論の定義による)世界の存在も、自らの主観を通して獲得されたものである。

しかし、主観的思索からひとたび客観世界における思索に視座を移したとき、自らの特異性は排除されなければならない。本論の定義における客観世界においても、他者も自らも同等の存在でなければならず、それぞれが主観的見方をしていると考えることは正しくても、自らが感じている絶対的な世界観は捨て去られなければならない。

そうしたとき、他者も考えているとみなされる主観は、実は、ニューラルネットワークの機械的な情報処理が生み出す概念の一つである、と考えることも無理はなかろう。

4. 倫理と神の座

4.1 倫理、美学、価値基準の所在

ニューラルネットワークの情報処理において、人が意識している部分はごくわずかであり、大部分の情報処理過程は意識の外部で行われる。この処理は、網膜の受けた視覚情報や、蝸牛管の受けた聴覚情報の処理のように、比較的単純で、生まれながらにして備わっている処理もあれば、言語情報処理のように、後天的に形成された情報処理機能もある。言語情報処理の一部は、生まれながらに備わっているとも言われているが、少なくとも、語学を修めることによってかつては理解できなかった言語も無意識的に理解し表現することができることを考えれば、無意識の情報処理能力の一部は後天的に形成されることは間違いがない。

これら後天的な無意識領域の中に、倫理、美学、価値基準にかかわる部分があるものと思われる。これらはその人の属する社会の中で成長する過程で形成され、その社会の文化の影響を色濃く受けている。

これらは後天的に獲得されたものであるからといって、強制的に変更することは容易ではない。特に、新たに与えようとする価値基準、倫理が、既に獲得された価値基準、倫理に反する場合には、これらの強制的変更は激しい抵抗を招くだろう。

結局のところ、個々人が互いに異なる倫理観なり価値基準なりを保ちつづけることは、社会的にも認めざるを得ない。これらにかかわる社会的合意が、個人の基本的人権と呼ばれるものなのであろう。

4.2 神と信仰の問題

神を祭るあり方もまた文化の一つであり、互いの差異を認め合わざるを得ない部分である。

ところで、神の存在と自然科学的知見は互いに矛盾するようにも思われてきたが、物理的実在と概念的実在という二つの見方を受け入れるなら、神の存在問題も比較的容易に理解、解決することができるだろう。

まず、神の物理的存在であるが、一神教においては、神は普遍的に存在するとされているため、物理的実在の全体が神の物理オブジェクトに相当する。すなわち、神は物理的に実在する、ということができる。

次に、神に対する概念であるが、これに関しては、人類の全てに共有されている概念があるわけではない。すなわち、文化の異なる社会において、異なる概念として神は理解されている。これに関しては、前節で述べたように、無意識の領域に存在する概念であり、他に強制することは困難さが伴う。社会的混乱を避けるためには、信仰の自由を認めることがベストの道であると思われる。

ただし、一つの点についてだけは理解しておく必要があろう。すなわち、神に対する概念がいかに異なろうとも、物理的には同一の神を信仰しているということである。神を全体であるとするならば、いかなる人にとってもその存在は同一でしかない。多神教もまた、全体の各部分に異なる神を認めていることから、神の総体としては一神教の神と何ら異なるものではない。宗教間の融和は、何にも増して重要なことではないかと思われる。

宗教は、神を精神的な存在であると考える。これも概念のレベルでは何ら問題はない。機械的な存在である脳が司る人間の情報処理活動を精神的存在とみなす以上、物理法則に従う物理的オブジェクトとして実在する神の精神性を否定する理由は何もない。

最後に、人の精神がニューラルネットという情報処理装置があるが故の存在であり、物理法則に従うだけの存在に精神は認められない、という反論に応えておこう。

自然科学の世界で、計算機を用いたシミュレーションが行われる一方で、実物や模型を用いた実験も普通に行われている。計算機シミュレーションは、物理法則をソフトウエアに組み込み、物体(例えば建築物)の挙動を予測する技術である。一方で、模型実験は、物理法則が元々インプリメントされているエネルギー粒子を用いた計算である、とみなすことも可能である。

人の脳で行われていることは、情報処理の概念に妥当するものであるが、自然界で生じている現象が情報処理ではない、ということはできない。大脳の活動が自然現象である一方で、自然界では物理的粒子を用いた演算が常時実行されている、とみなすこともできるからである。

もちろん、信仰は論理を超越した世界であり、意識が扱って結論を出すべき領域の事柄でもないことも事実である。そうであれば、人が自然界に対して厳かなものを感じ、神の言葉を感じることができるなら、またそれが一定の広さの社会的な合意を得ているなら、神はその社会の人たちが信じているような形で存在する、と考えてよいのではないだろうか。 神は信じるものの前にのみ現れる、のである。