このところ書く方に専念しているようなこのブログですけど、たまには読むこともいたしましょう。
というわけで取り出だします一冊は無意識の脳自己意識の脳。アントニオ・R・ダマシオ著、田中三彦訳で講談社から出ておりますこの本は、412ページと厚めの本でして、お値段のほうも2,800円と少々張りますが、2003年の出版と比較的新しく、最近の脳科学の進歩について、ある程度フォローしたものとなっております。
1. ダマシオ氏の着眼点:中核意識と延長意識
著者のダマシオ氏、精神病を専門とする医者でして、脳の疾病に由来するさまざまな精神的疾患の病理から、大脳のどの部分でどのような情報処理がなされているのかということをマッピングしています。
本書におけるダマシオ氏の着眼点は、氏の提唱する「中核意識(いま・ここ感)」と「延長意識(自己感)」を、脳の機能不全患者の病態から探っていくことにあります。
書かれている症例は興味深いものが多く、博士の愛した数式に登場いたします記憶に障害をもつ博士とほとんどおなじ症例についても解説がなされています。
でも、意識を支えているもの、感覚情報を処理する機能や言語の理解機能に発声機能、長期記憶やワーキングメモリといったものに関して、その詳細に関する進歩はみられるものの、そうしたものがあるということは、以前から知られていたことでして、さほどおどろくような進歩でもありません。とはいえ、前回のこのブログで参照していました脳の話は1962年の初版でして、この40年以上の進歩は無視してよいものでもないでしょう。
2. 意識のありか:網様体
というわけで、意識について、同書を参照して、改めてまとめておきましょう。
まず、意識の基本であります、覚醒している、外部の刺激に反応しうる、という機能につきましては、前回もご紹介したとおり、脳幹網様体にあります。この網様体といいますものは、網、といった単純なものではなく、特定の機能をもつ「網様核」の集まりである、ということが最近になって知られてきた、ということです。
網様核のあるものは心肺機能を一定に保つ働きを担い、あるものは睡眠と覚醒の制御を行います。更に意識に関して、次のように述べます。
ロドルフォ・リナスは、これら一連の発見から、覚醒状態においても睡眠状態(レム睡眠)においても、意識は大脳皮質、視床、脳幹網様体が関係する閉ループ装置の中で生み出されるという考えを示した。この装置は、網様体と視床の内部の、自発的に発火するニューロンの存在に依存している。つまり、これらのニューロンの活動は、外界から脳の内側に信号をもたらす感覚ニューロンにより調整されるが、そのニューロンは、発火するのに、外界からの信号を必要としない。
……
今日の指導的な網様体研究者は、意識的状態にあるとき網様体は視床と大脳皮質に向けた連続的信号を生み出し、それがある種の皮質的調和をもたらしていると結論付けている。併せて、睡眠のメカニズムの研究により、網様体の構造が睡眠―覚醒サイクルの調節に関わっていることも明らかになっている。睡眠は自然な無意識状態だから、意識と睡眠が共にほぼおなじ領域に根ざす生理学的プロセスから生まれているとするのは合理的だ。
と、いうわけで、意識のありかはほぼ明らかになっています。また、意識を支えるさまざまな周辺機能、たとえば、言語を理解し、言葉をしゃべること、記憶などを司る脳の領域も明らかになってきました。
3. 意識には情動が必要
さて、同書の最終章は「シリコンには意識は生み出せない」と題しまして、その表題どおりのことが語られております。なぜシリコンで意識を乱せないか、というと、意識は情動があってはじめて成り立つ、ということがその理由としてあげられています。
しかし、情動といえども人の脳内で行われている情報処理であって、情動自体をシミュレートすれば半導体に意識をもたせることもできるのではないか、と思われます。
実験的小説レイヤ7では、この部分を以下のように記述しました。
「なんとまた恋愛とな。それを大学で研究したいと。まあ、何でも研究するのはいいとして、感性は知性と直交するじゃないか。直交ってのは、つまり無縁ということだよ。私のAIは、あくまで知性軸の上で解析するものであって、これに直交する感性軸の、いうなれば、つまり、非論理的な世界には弱いはずだが……」
意外にも、秋野助手がこれに反論する。
「先生、恋愛を通して人間は成長するといいますね。そういう成長過程のシミュレーションだったら、先生の自己増殖型並列思考アルゴリズムに良く合うんじゃないでしょうか。それに、感情といったって、所詮は脳における情報処理の一形態にすぎませんからね」
「わしには、あまり、賛成できんが……」相生教授、思わぬ反論にたじたじだ。
「まあ、やってみましょう。ちょっとやってみて、手に負えないとわかったときは方向転換しますから。それに、知性と直交する感性っていう先生の一言で、ちょっと思い付いたことがあるんです。結果はすぐに出ると思いますよ。柳沢さんのヒューマンシミュレータがありますので、作らなくちゃいけないのは、思考ルーチンだけですから」
「君がそう言うなら、それでも構わんが、君が本当にやるべきことは、もう少し考えてみんとな。まあちょっと、考えておきましょう」
4. おまけ:レイヤ7のその後
まあ、レイヤ7のお話の中では、この人工知能の改良が決め手となって意識が誕生するわけです。で、相生教授は同僚と、コップ酒を傾けながら次のように述べます。レイヤ7の雰囲気もお楽しみください。
夕闇が迫る中、赤提灯の灯るラーメン屋で馬場教授、相生教授に、
「そうですか。こちらでも実は、英二君のマイクロアクチュエータを使って、全くの無生物から設計通りの生命体を作り出すことができるようになったんですよ。今論文書いているんですけどね」
「生命も作れれば、精神も作れてしまう。人間も機械と何ら変らないってのが、いずれは、世間一般の常識になるんでしょうね。果して、それが、良いことなのか」
「それを言うなら、ロケットなんかも打ち上げないで、空の上には神様がいるということにしておかなくては、いけなかったんじゃあないですか」
「これからの時代には、自然科学と矛盾しない、世界観の基礎になるものを、きちんと持っておく必要があるんでしょうな。それがないと、倫理も社会ルールも無茶苦茶になる」
相生教授、難しい顔をしてコップ酒を飲み干すと、赤提灯の親父に頼む。「あ、すいません。もう一つお願いします」
「倫理ねえ。このあいだ、石黒さんに会ったとき、初期状態がどうのこうのと言ってましたけど、ニューラルネットの初期設定に、以前お見せした人間の大脳の接続を使われたんじゃあないですか。もしそうだとすると、これはちょっとまずいように思いますが」
「いや、あれを使ったわけじゃあありません。使っていないとも言えないが」
「えーっと、どういうことですか?」
「あのデータを出したところに問い合わせたんですよ。他にもデータはないかってね。それで、最終的に十七のニューラルネットのデータを入手しましてね」
「ははあ、遺伝的に決まる部分と、後天的に学習で決まる部分を分けたわけですね」
「ええ、共通部分を取り出しましてね。これを学習させれば、自我が目覚めるということは当然予測してましたんで、そうならないように細工を施しといたんですよ。自我を発生させる部分を取り除きましてね。しかしあいつは、自分で足りない部分を補いおった」
……
「そういえば、馬場先生は大脳生理学もやられてましたね。新しい思考ソフトは、これまでのソフトが知性だけを処理していたのに対して、感性を追加したというものなんですが、これでどうして、これほど大きい効果が現れるものか、生理学的に説明がつきますか」
「感情とか本能的欲求といったものは、脳の中では、大脳辺縁系と呼ばれる部分と、視床下部という部位の活動によるんですが、ニューロンのやってますことは、どこでも一緒、知性も感性も、それほど変りませんや。まあ、視床下部は内臓などからの神経と結びついているし、ホルモンの分泌を促す作用もありますから、脳のこの部分は、肉体的、動物的な部分といえますね」
「知性と感性が直交することから、思考ソフトで扱うパラメータを複素数にして、実数と虚数の直交を利用してこの双方を表すってのが、坊谷君の最初の発想なんですけど、人間の脳でやっとることとは随分と違うなあ」
「複素数を使うとは、またしかし、乱暴な発想ですね。大胆というか。しかし、それをやるなら、感性を実数にすべきでしたね。知性のやってることはイマジナリですから。先生方は真面目だから、知性を実数にしたんでしょう」
相生教授、馬場教授の洒落には気が付かない。
「もちろんそうしましたけど」
どこか腑に落ちない相生教授だが、だんだんわかってくる。
「ははあ、現実世界との入出力は実数で、ニューロンの処理の過程で虚の成分が出てくるってわけか。そいつは頭の中でできた世界で、イマジナリってわけだ」(洒落言ってんのか、あんたは)
「大脳の機能は空間的に分けられてますけど、AIOS上で動いている思考ソフトは、フラットで、場所による区別なんかないですよね。その中で、現実世界の刺激と、想像上の概念とをきちんと分けて処理しようと思ったら、扱う変数に違いを持たせるしかないんじゃないでしょうか。想像上の概念を扱う能力こそ、人間の知性を知性たらしめている所以ですから、それがきちんと扱えるかどうかは、本質的な違いになるんじゃないですか……」
「そりゃそうだが……」相生教授、まだ一つぴんとこない。
「逆の見方をすれば、知性軸と直交する感性軸という形で、ニューラルネットという実在の細胞組織に働きかける、ダイナミズムの処理がきちんとなされているともいえますね。
……」
馬場教授の真面目なコメントで、相生教授、これまでの疑問が氷解しそうな予感がする。