先日、ちら、っとご紹介いたしました現代日本のアニメ、実は日曜日の涼しいうちに読んでしまっておりました。
1. 日本アニメの魅力
確かに、テキサス大学で日本近代文学を専門とする女性教授が日本アニメについて語る、というシチュエーションはかなり愉快なものであり、出だしは引きずり込まれてしまいました。でも、この厚い本に仕立てるのは、少々無理があった様子で、中盤以降は中身が薄くなってしまいました。
で、日本アニメの魅力とは、一言でいえば複雑さ。筋も複雑なら、登場人物の置かれたシチュエーションも、心理状態も、実に複雑である、ということです。
これは、私も、短いながらの米国生活で強く感じたことです。私がいた頃の米国では、セーラームーンが大流行。ビデオショップに行くと、セーラームーンのビデオが山積みされているのですね。(上のリンク、テレビをクリックして、一話ずつ御覧ください。もちろん、全て無料です。[2016.6.8追記:現在は、関連商品紹介ページにリンクが付け替えられています])
ま、正直申しまして、これを見て最初に私の思ったことは、「これはまずいなあ、日本人、米国人に変態だと思われるのではなかろうか」ということなのですが、どうやらこれは杞憂。米国の人達も、きちんとした作品として、セーラームーンを受け入れてくれた様子でした。
2. “セーラームーン”と“トムとジェリー”の落差
で、週末には、テレビでもセーラームーンを放映しているのですね。それが、トム・アンド・ジェリーに続けてセーラームーンをやっている。この二つのアニメを立て続けに見れば、その落差に唖然といたします。
何しろトムとジェリー、ネコがネズミを追いかける、それだけのアニメなのですね。で、正義は賢いネズミにあり、バカなネコはとことんやっつけられる、という単純なストーリ。これ、ずいぶん昔に見たときから、全く変わらずに、延々と放映を続けているのですね。ネコのバカさ加減よりも、視聴者の頭の出来具合がとても心配になる状況です。
一方のセーラームーン、これは実に複雑な話です。友人間でも心理的な葛藤があり、それが状況を複雑にします。「あの人は、なんで心を開いてくれないのかしら」なんてセリフ、トムとジェリーの数十年の歴史の中で、まず、一度も語られたことはないでしょう。
人は幼児期の環境で、無意識のうちにもつ価値基準、考え方の基本的枠組みなどが決まってしまう、といわれています。このような時期に、トムとジェリーを見て育った人と、セーラームーンを見て育った人が、どれほど異なった人間になるのだろうか、と考えると、恐ろしいものがあります。
実際問題として、米国に古くから住む人達は、トムとジェリーを見て育ったのではないか、と思われるのですね。そもそも、米国の行動パターンがトムとジェリーである、と考えると非常にわかり易い。それも、ジェリーではなく、トムの役割を米国が果たしているのですね。
まあしかし、米国の未来は明るい、ともいえるでしょう。何しろ、トムとジェリーとセーラームーンの、両方が放映されていたのですから。日本アニメは、おそらく、次世代の米国人の深層心理に、世の中、それほど単純なものではないのよ、というメッセージを植えつけ、将来の米国のリーダーたるべき人々に、人の心を重んじる必要性をきっちり身に付けさせているのではないか、と思われます。
とまあ、これは私の個人的なお話でした。まあ、こんな分析をテキサスの方に期待するのは無理な話なのですが、同書によりますと、米国のアニメオタク (anime otaku:日本語が英語になっています)が日本アニメを好む第一の理由は、その複雑さ、ということですから、皆さん良くわかっておられます。
3. らんま1/2の魅力
さて、著者のネイピア女史が注目する日本アニメはらんま1/2。高橋留美子原作のこのアニメは、確かに面白い。そもそも、他のアニメと比べても、その放映回数は群を抜いています。でも、これを、ジェンダーの社会学で分析されても、なんだかなあ、、、というのが私の気持ち。
確かに、男らんまと女らんまに対する周囲の人々の反応は全然違いまして、それがこのアニメのどたばたを極めているのですが、これは、単にジェンダーだけの問題ではないのですね。
そもそも、男らんまは、普通の男以上に男性的な、格闘技の達人。一方の女らんまは、あかねとも張り合える肉体美の持ち主、という設定でして、この両極端を行ったり来たりがこのアニメのエネルギーをかもし出しているわけです。
更に言えば、らんま1/2の魅力は、その豪華声優陣にあるのでして、男らんまを山口勝平が演ずれば、女らんまは林原めぐみ、その婚約者天道あかねは日高のり子、長女の天道かすみお姉さまはなんと、井上喜久子、そして、少々無関心の醒めた妹天道なびきは高山みなみ、というわけ。
まあ、名探偵コナンと、犬夜叉と、ああ、女神様の良いとこ取りをしたようなアニメであったのですね。それにしても、かすみお姉さま、台所に立つその姿はほとんどベルダンディー。なぜか姿も似ているし、声も似ているし、お姉さま、と呼ばれるそのシチュエーションもそっくり。
あ、ネイピア女史のご本の紹介を続けましょう。アニメの話になると、熱くなって熱暴走、ならぬ、話が脱線するのが問題ではあります。
さて、高橋留美子アニメのジェンダー理論は、少々、面白くありませんが、この本ではうる星やつらなどにも言及し、男性に尽くす女性の姿について分析を加えております。
まあ、早い話、アニメは顧客の満足を狙ったものでして、ジェンダー云々よりも先に、アニメなりマンガを買う男性読者の好みがあるわけです。で、俺に尽くしてくれる女性が欲しい、などという身勝手な要望にもきっちり応えてしまうのがマンガであり、アニメなのですね。
そうじゃなければ、メイドモノなどありえません。これ、どうやってジェンダーの社会学で分析するのでしょうか。これを分析するには、経営学、なかんずく、マーケティングの手法がモノを言うのではないか、と思いますよ。
4. 宮崎アニメへの評価
最後に日本アニメを論じるならば避けて通れないスタジオジブリ、宮崎アニメにもページを割いております。このあたりは、過去に多くの評論家が論じたところでして、なかなか独自性を打ち出しにくいところではあります。
ただ、魔女の宅急便で、貨幣を持ち出したところにリアリズムを感じていただくのは、少々おかしい。宮崎アニメの特徴は、個人の自立が永遠のテーマにあるわけで、経済的自立も、個人が自立する過程では避けて通れないことであるのですね。
個人の自立の裏側にありますのが、自己の喪失。じつに、これが今の日本の大問題でして、おそらくは教育システムに起因する問題なのではないかと思うのですが、己を見失う若者、これが現代日本の抱えた大きな問題であるわけです。
これに対する宮崎駿の答えは、働け、ということでして、それがどんなにつまらなくみえる仕事であっても、人は労働を通して自らの価値を他人に認めさせることができる、というわけなのですね。
ああ、長々と書いてしまいました。それも、私の趣味の赴くままに。肝心のネイピア女史の著作に対する紹介は、あまりしてはいないような気がするのですが、まあ、それも良いでしょう。たとえそれが、少々自分の志と異なった書物であろうとも、そこに込められた精神は何がしかの意味があるのですね。ま、私は私の道を行く、で良いのではないかと思いますよ。もちろん、ネイピアさんも、です。