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フッサールの「諸学の危機」と相対性理論

以前のこのブログで、フッサールは、彼が現象学を深めた時期に大論争を呼んだ相対性理論について何も言及していない、ということを書きました。本日はまずこの点につきまして、訂正いたします。

1. 諸学の危機の契機

実は、西研氏の哲学的思考を読む限り、危機とされる「諸学」が何であるかという点について判然といたしません。そこで、「ヨーロッパ諸学の危機」を読み返してみました。そうしたら、なんと頭の部分に書いてありますね。つまり、フッサールが「ヨーロッパ諸学の危機」というテーマに取り組んだ契機の一つには、長い間絶対的な真実である信じられてきた、ガリレオ、ニュートンの打ちたてた物理学が、プランクやアインシュタインによって否定されたことがあった、というわけです。

ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学ですが、最近では中公文庫から出ております、お値段税別1,190円のお買い得なのですが、ここでは手持ちの「世界の名著」から細谷恒夫訳で引用することといたします。

学問一般といえば、その中には、厳密な、そして最も成果ある学問性の模範として、我々が驚嘆してやまない純粋数学や精密自然科学も含まれるわけであるが、それらの学の危機を語ることなどどうしてできようか。たしかにこれらの学も、その理論体系と方法論全体に関して変わりうるものであることが示されている。現にこの点に関しては、古典物理学の名称のもとで硬直しようとしていた様式、いわゆる古典的完成として数千年のあいだ保持されてきた様式が、ごく最近破られることになった。しかし、古典物理学の理想に対抗して勝ちとった勝利や、純粋数学の意味深く純粋な構成形式をめぐる現在進行中の論争は、従来の物理学や数学がまだ学的でなかったとか、また、それらの学がある種の不明確さやあいまいさにつきまとわれていたとはいえ、その研究の領域においては明証的な洞察を得ていなかった、とかいうことを意味するのであろうか。

と、いうわけで「ヨーロッパ諸学の危機」はニュートン力学崩壊の現場に居合わせたフッサールが、自然科学の基礎付けと、古い論理の価値の再確認を目指して行った講演と、それをもとにした著作であった、と考えるのが妥当ではないかと思います。

なお、フッサールは物理学と並んで「純粋数学の構成形式をめぐる論争」をあげていますが、これが具体的になんであったのか、私にはみつけだすことができませんでした。とはいえ、フッサールも、数学の論争については重きをおかず、興味の中心は物理学であるようです。

物理学がニュートンによって代表されようが、あるいはプランクやアインシュタインや、その他未来の何びとによって代表されようが、物理学は依然として精密科学であったし、またそうでありつづけるであろう。理論体系全体の構成様式の絶対的、究極的な形は期待できないし、また努力によって獲得することもできないと考える人が正しいとしても、その点において変わりはない。

かつてのニュートン物理学は絶対的な真理であると考えられていたのですが、この時代の物理学の変化は、仮説の提唱とその実験的検証という形をとっており、もはや物理理論は絶対的真実たり得ないであろう、ということを、とうの物理学者が感じるようになっておりました。

2. 精神科学への言及

この時代のもう一つの学問上の進歩は、フロイトによる無意識の発見でした。これについてもフッサールは言及しています。

それと同様なことは、我々が実証科学に数えるのをつねとしている、具体的な精神科学というもう一つの大きな学の一群に対してももちろんいいうる。……これら全ての諸学の学問性の厳密さ、すなわちそれらの理論的作業と、長く承認せざるを得ないであろう成果の明証性は、疑う余地はない。ただ心理学に対してだけは、たとえそれが具体的な精神科学に対して究極的な説明を与える抽象的な基礎科学であると主張しているにしても、我々はおそらくそれほどの確信を持ちつづけるわけにはゆかないだろう。しかし方法と作業において明らかな隔たりがあることや、その発展の歩みが比較的緩慢にならざるをえない自然の事情の差異などを考慮に入れるならば、かなり一般的ないい方では、心理学も精密科学に入れてもよいであろう。

そして、これら科学の「学問性」に対し、哲学の「非学問性」が際立っていることを説明した後、「主観性の謎」へと、フッサールは論を進めていきます。こちらの問題(主客一致問題)に関しては、今回は踏み込まないことにいたしまして、本日は、物理学に焦点を絞って議論したいと思います。

ガリレオやニュートンにとって物理学の理論は仮説ではなく、真実でした。フッサールの言によると次のようになります。

もちろんガリレイにとっては、上述した仮説は仮説として理解されていたわけではない。彼にとっては物理学がそのまま、いままでの純粋および応用数学とほとんど同じくらいにたしかのものなのであった。

精密な自然研究者の理想ともいうべきニュートンは「われは仮説をつくらず」といっているが、そこには彼が誤算したり、方法的な誤りをおかさないということも含まれている。「精密性」という理念的性格を表現している個々のもの、すなわちあらゆる概念や命題や方法のうちに、同様にまた精密科学の理念のうちに、さらに純粋数学の理念のうちに、同様にまた物理学の全体的理念のうちに、「無限に」ということがはいり込んでいる。そしてこの「無限に」ということこそ、幾何学がはじめて歴史の世界に持ち込んだ、純粋な帰納性という恒常的な形式なのである。

3. 物理学は仮説に

一方、20世紀になりますと、このような素朴な考え方は棄却され、仮説とその検証、という考え方に変化していきます。引用が前後しますが、フッサールの言葉を以下に引用いたします。

ガリレイの理念は一つの仮説であり、しかも非常に注目すべき性質のものなのである。自然科学が数百年のあいだに実際に行ってきた確証も、それに劣らず注目すべき性質をもった確証なのである。ここで注目すべき性質というのは、仮説はそれが確証されているにもかかわらずいぜんとして永遠に仮説であるにとどまる、ということである。確証[それが仮説にとっては考えうる唯一のものであっても]は、多くの確証の無限の歩みなのである。無限に向かっての仮説であり、無限へ向かっての確証であるというのが、自然科学に固有な本質であり、アプリオリに自然科学のあり方なのである。

というわけで、物理法則は絶対的な真実ではなく、仮説であるということをフッサールは述べます。これは、人の主観から独立した絶対的な真理である客観を否定し、自らの主観の中に、自らと似た存在としての他者を認め、他者と概念を共有する相互主観性(間主観性)の上に「客観」概念を再定義したフッサールの思想とよくマッチいたします。

と、いうわけで、前回のブログに記述いたしました第一の点、すなわち、物理学は絶対的な真理を述べるものではなく、仮説にすぎない、という点につきましては、物理学の側で生じました大転換を、そのままフッサールは引き継ぐ形で記述しております。

第二の点、すなわち生活世界に関して、「諸学の危機」には多くの記述があるのですが、こちらは、いいかげんさを許容する世界、といったデカルトの生活世界とは少々異なる扱いとなっております。こちらにつきましてはいずれまた検討することといたしましょう。

4. 危機書時代の危機的状況

それにしても「諸学の危機」は読みにくい本です。なにぶん、「諸」学ですから、いろいろな学問のことがごっちゃにかかれています。もう一つの問題は、問題点に対する記述が少なく、いきなり答が書いてある、だから、何のためにそんなことをいうのか、理解に苦しむ部分が多いのですね。

フッサールが「諸学の危機」の講演を行ったのは1935年、フッサール76歳のときでした。フッサールの没年は79才ですから、残された時間が乏しいことを意識していたのかもしれません。また、ユダヤ人であるフッサールにとって、ナチス台頭のこの時代は、諸学どころか命の危機。そういった事情が著者にあったことも、本書のわかりにくさの一つの要因であったのでしょう。

年譜によりますと、このあたりの事情は次のようになっています。

1936年(77歳) 前記『危機書』の前半(第一部と第二部)が、当時ベオグラードで、リーベルトによって発行されていた雑誌『フィロソフィア』の第一巻に掲載される。その第三部以下の後半も、発表する予定であったが、フッサールはそれを全体的に書き改める計画があるとの理由で、その原稿を手元にとりもどし、死の床につくまでたえず手を加えていた。

1937年(78歳) 8月、フッサール発病。ついに再び回復しなかった。

1938年(79歳) 4月27日、フッサール、ルライブルクの自宅で死す。この年は第二次世界大戦の前年にあたり、3月にはナチス・ドイツがオーストリアの併合を宣言し、9月には、ミュンヘン会談が行われている。当時の状況、特にナチスのユダヤ人迫害政策のもとにあって、彼の著書のドイツにおける出版は、まったく不可能であったが、彼の死後には4万ページにおよぶフッサールの速記原稿のほかに、彼の助手たちによる1万ページにおよぶ筆記原稿など、膨大な遺稿が未整理のまま残されていた。しかし当時のフライブルクは、戦争勃発のさいはもっとも危険な場所であったので、弟子たちはフッサールの未亡人マルヴィネ夫人とはかって、彼の遺稿をベルギーのルーヴァン大学に移し、そこに「フッサール文庫」を設立した。そこに保存されている遺稿から、現在『フッサリアーナ』Husserlianaが11巻まで出版されている。

こんなとんでもない事情があったのですね。ここは、わかりにくさに文句をつけても始まりません。何とか、著者の意図するところを読み取るよう、読者の側でがんばるしかありません。