日本の良心ともいうべき梅原猛氏の「神殺しの日本」を読みましたので、感想などをご報告いたします。
その前に、奥付情報によりますと、この本の第一刷が発行されましたのが2006年9月30日、第二刷が発行されましたのが10月10日ということで、この間わずかに10日ほど。最初に印刷する部数を間違えたのでないのなら、恐ろしく売れている、ということではないでしょうか。
で、まずは小泉前総理の靖国参拝に批判的。まあ、朝日新聞社の本ですし、元は朝日新聞の連載記事ですから、某漫画家などはそれ見たことか、と言いそうですが、その内容は極めてまとも。まずは公務員なら遵守すべき法律上の問題がありますし、一国の総理として国益を第一に行動すべきであるはずのところ、対アジアの外交を犠牲にするほどには、靖国参拝の必然性はなかったと思うのですね。
で、表題の「神殺し日本」という話になるのですが、明治維新後の日本の神道、すなわち国家神道は、それ以前の、仏教と入り混じった日本古来より土着していた神道とは別物であって、明治の神仏分離令が第一の神殺し。そして、敗戦後の天皇人間宣言が第二の神殺しで、これらの結果、日本人の宗教意識が失われてしまった、と説きます。
国家神道と神仏分離令については、このブログでも以前取り上げましたが、廃仏毀釈はタリバンも真っ青の文化財破壊行為につながってしまいました。
ただこれを否定的に捉えることは、今だからできることでして、明治維新のころの国際情勢は、ならず者国家の横行。そんな中でいかにわが国を守るか、という危機的状況であったことを前提に考えなくてはいけません。
実に明治維新の直前、中国のアヘン取り締まりに反対したイギリスが起こした戦争がアヘン戦争とアロー戦争でして、これで中国へのアヘンの輸出公認をイギリスは勝ち取ったのですね。
このニュースは直ちに日本に伝えられ、大きな衝撃をもって受け止められたわけです。で、欧米の精神的支柱であるキリスト教に対抗すべく、わが国の精神的支柱として白羽の矢が立ったのが国学と復古的な神道であった、というわけです。
このような政策は、明治維新前後の緊急事態に対応する政策としては止むを得なかった、と私は思います。これに伴う文化財の破壊も、もう少しマイルドな方法を取りえなかったものか、とは思いますが、止むを得ないことであったのでしょう。
しかしながら、このような危機的な状況が去った後も国家神道が支配的役割を果たしたことは、わが国の国民の精神的成長を阻害した可能性が高いように思います。これは、その後の政治的権力闘争の結果、そうなったのでしょうが、例えば大正デモクラシーの高まりの頃に、もう少し、普通の国家の方向に日本のあるべき国家像を切り替えることはできなかったのか、と思うのですね。
まあ、いまさらこんなことをいっても始まらないのですが、、、
神殺しの招いた今日的な問題は、倫理観の欠如である、と梅原氏は指摘いたします。そして、これを戦前の国家神道復活で解決することには否定的であり、明治維新前のわが国の、仏教思想を基礎とする宗教観に戻すことを主張されます。
これに対して、まず国家神道は論外といたしましても、仏教もどうか、と私は思います。梅原氏、仏教を高く評価する一方で、現実の仏教界が堕落していることを嘆いています。この現実があるかぎり、仏教による日本人の倫理観の確立は、まず不可能でしょう。
そもそも目を世界に向けますと、今日の世界の悲劇の一つの要因は、宗教的対立であって、これを解決するためには、宗教を超越した世界観、倫理観を確立する必要があります。もちろんそれは、世界中の誰にでも納得できる、普遍的な概念でなければなりません。このような哲学、思想こそ、現在の人類に求められているのではないか、と私は思うのですね。
二度にわたって神を殺してしまった日本人、ひょっとすると世界の救世主足り得る存在となる可能性を秘めているのかもしれません。わが国の哲学者、思想家が目指すべき方向は、そういうことなのではないでしょうか。
ま、そうは申しましても、温暖化の防止や環境問題など、個々の問題解決も大事であることは論を待ちません。同書に書かれた梅原氏のご活躍には、ただただ頭が下がるばかりです。