科学(フィジックス)の基盤であり、かつその限界を定めるメタ・フィジックス(形而上学)を論じるに、どうやらポパーの3つの世界論を無視できませんね、というのが前回のこのブログでの結論なのですが、実のところ、私はポパーをほとんど読んでいない。解説本のほかは、「開かれた社会とその敵(第1部)」位なのですね。これでは少々まずい、ということでポパーの本をいくつか読んでやろうと、本屋を探したのですが、ポパーの書物はほとんど置いてありません。
ポパー、実は、「開かれた社会とその敵(第2部)」におきましてマルクス主義に代表される「歴史主義」を批判しております。どうも日本の知識人にはマルクス主義に好意的な人が多く、「現代保守思想の大家」などと称されるポパーには、はなはだ居心地の悪い世界、ということなのでしょうか。書店の扱いも、気のせいか、ポパーには冷たい感じがいたします。
ただ、この方の思想は、確かに反共ではあるのですが、批判精神も健在。ポパーの思想を以って保守思想と呼ぶのは、少々的を外しているような気がいたします。
と、いうわけで、神保町は三省堂書店に出かけてまいりました。さすがにここまで来ると何でもありますね。アニメ関連グッズを秋葉原に求めるようなものです。
で、まず目に付きましたのがポパーならぬサルトルの「家の馬鹿息子(1)(2)(3)」の3冊。この本、厚いし高いし、何でいまさらサルトル、なんて感じもいたします。この本、果たして買う人がいるのでしょうか。まあ、余計な心配、ではあるのですが、、、
私、実は、「馬鹿」と付く表題の本をコレクションしておりまして、ベストセラー「バカの壁」は勿論のこと、ホルスト・ガイヤーの「馬鹿について」とか、呉智英の「バカにつける薬」等を愛読しているのでした。その私にしてちょっと手が出ないのですからねえ、、、
というわけで、サルトルの大作をわき目に、ポパーの本を片っ端から購入。お値段そこそこの本だけ、ではあるのですが、買いました本は、まずは岩波現代文庫の「果てしなき探求(上)(下)」、対談「開かれた社会─開かれた宇宙」、そして講演記録の「確定性の世界」です。
ざっと目を通したかぎりでは、「確定性の世界」は外れ。「確定性」という邦題も、“propensities”の、あまり良い訳ではありません。私ならこの題名、「クセのある世界」位に付けるのですがね。
で、この中でのお奨めは、対談「開かれた社会─開かれた宇宙」と、岩波現代文庫の「果てしなき探求(上)(下)」です。前者は、楽屋話的な感じも受けるのですが、非常にまじめなインタビューです。でも一押しは文庫。特に下巻が「第3の世界」を扱っておりまして、ポパーのメタフィジックスを論じる上では必読の書物、と言えるでしょう。文庫本だから、安いし、、、
同書で、世界3について、ポパーは次のように述べています。
「事物」―物的対象―の世界を第一世界と呼び、(思考過程のような)主観的経験の世界を第二世界と呼ぶとすれば、言明それ自体の世界は第三世界と呼べよう。
……
科学に関心をもっているものは誰でも世界3の対象に関心をもたざるを得ないことは明らかである。物理学者は、まず最初は、世界1の対象―例えば水晶とかX線―に主として関心をもつかもしれない。しかし、すぐさま彼は事実についてのわれわれの解釈に、つまりわれわれの諸理論に、それゆえ世界3の諸対象にいかに多くたよっているかを悟るにちがいない。
ここでいう第三世界なり世界3は、書物の世界であり、学説を発表すれば批判も浴びるという学術社会の世界です。この世界3から人は影響を受けて第二世界の内部で思考し、第一世界、すなわち事物の世界に働きかける、というのがポパーの3つの世界、というわけです。
さて、ここからは、ポパーの考え方を一歩進めて、これらの世界はいかに実装されているのか、という点について考えてみましょう。
まず、第二世界は自我の世界であり、主観の世界です。これが、人の脳にある、複雑にシナプス接合したニューロンの塊の働きの結果生じていることは疑う余地がありません。最近の脳科学の進歩は、ニューラルネットワークの機能するメカニズムを明らかにしつつあるのですが、そこで生じている現象は物理現象であり、何の超自然的作用もそこには見出されていません。
第三の世界を担うのは、人間社会、と呼ぶべき存在でしょう。人間社会において、それぞれが精神的主体として機能する多数の個人が、コミュニケーションチャンネルで接続され、膨大なメッセージを相互にやり取りしています。
社会には社会独自の精神的機能をもつ、さまざまな組織があります。企業や行政機関は、独自の情報処理機能を持ち、それぞれの組織としての意思決定を行っています。学術の世界では、多数の研究機関や研究室がそれぞれに精神的機能を有し、さらに、学会、あるいは出版や講演会といったコミュニケーション手段により、互いに情報をやり取りし、全体としての常識、定説、といったものを形成しているのですね。
こういった機能は、人間の脳とは相当に異なるものですが、それが一つの精神的機能であることは否定できず、かつ、ここで扱われる概念、情報は、人の精神的機能が理解しうるものであり、第二世界に属する主観的判断を第三世界に発表するという形で、相互に情報の伝達がなされています。
第一世界は、知覚の彼岸にある世界で、われわれは知覚のこちら側に生じる、表象、現れ(現象)としてこれを把握しています。第一世界は、人間精神とは独立に存在する世界であって、それ自体には名もなく、区分もない存在なのですが、ひとたび人がこれを知覚すると、人はこれを個体に区分し、概念と関連付けてこれを理解します。
すなわち、人は物自体を見ているときも、その結果は主観の内部に構成された物の概念であって、人が外部に働きかけを行う際も、主観の内部の物を意識して種々の行為を行います。その結果、第一世界、すなわち物自体に何らかの作用を及ぼし、これが知覚を通して主観世界にも把握されることになります。
例えば、忘れてはいけないスケジュールが入った場合、人は手帳を取り出し、その日時に他のスケジュールが入っていないかどうかチェックします。手帳そのものは第一世界に属する物的存在ですが、人が読むことによって、その内容は主観(第二世界)に取り込まれます。で、時間が空いていれば鉛筆を取り出してスケジュールを書き込む。第一世界に働きかけを行う、というわけです。その結果は、逐一視覚を通してフィードバックされ、主観は意図した文字がそこに書かれていることを確認する、というわけです。
で、この第一世界の実装なのですが、素粒子なり、クオークなりにより構成されているのですが、実はこれらの物理的実体の振る舞いは、演算とみなすこともできまして、広義の情報処理である、と捉えることもできます。
これは例えば、電気回路の振る舞いを四則演算や微積分で記述することができる一方で、これらの振る舞いを利用して計算機(アナログコンピュータ)を構成することもできることからもご理解いただけると思います。
更に極論すれば、計算機によるシミュレーションに代えて、模型実験を行ったり、実物試験を行ったりすることも、演算機能がインプリメントされた物理的実体を用いた演算、とみなすこともできるのでして、現実世界で行われる様々な実験も、ある種の演算を行っていることと等価、なのですね。
まあ、この言い分には少々無理があることを承知で受け入れていただけますと、第一の世界が物理的粒子を用いた情報処理ならば、第二の世界は人の脳にありますニューロンを用いた情報処理、そして第三の世界は、世界中の人々のニューラルネットワークとこれらを結んだコミュニケーションチャンネル、そして、知的活動を執り行う社会システムが実行する情報処理、と、すべての世界は情報処理に帰着することができます。
なんと美しい世界ではないか、と自画自賛する次第ですが、はて、他の人はどうお考えでしょうか。ま、「馬鹿言え」がありそうな反応だ、とは思いますが、、、
2017.1.13追記。ポパーの世界3につきましては、「哲学と現実世界―カール・ポパー入門」を読むもご参照ください。