先週のこのブログで、バカと名の付く本をコレクションしている、などと書きましたが、早速本屋で見つけてしまいました。その名も「バカとは何か」。和田秀樹著、幻冬社新書の一冊はお値段税別720円のお買い得です。
で、少々読み始めたところでは、なかなかにまじめな内容。バカに関して多少賢くなりたい方、日ごろ馬鹿といわれてお悩みの方、にはお奨めの一冊です。
まだ全部読んだわけではありませんので、内容のご紹介はまたの機会にするといたしまして、なぜ私がバカに拘るか、という背景につき、本日はご説明しておきましょう。
実は私、ネットの喧嘩を専門としておりまして、もちろん、喧嘩をするのが専門、というわけではなく、ネットの喧嘩という社会現象を、文化人類学的、社会学的、経営学的に解析するのが私の学問上の専門分野、なのですね。
文化人類学という学問分野は、フィールドワーク、すなわち、研究対象となる社会の中で生活することでその社会を知る、というアプローチが、まあ、なんといいますか、王道、なのですね。
普通の文化人類学のフィールドワーク、となりますと、レヴィ・ストロースのようにアマゾンの裸族社会で生活するとか、恩師青木保先生のようにタイの僧院で修行するとか、相当に大変な仕事となるわけですが、ネットの社会はそこにある。パソコンをつなげば、すぐにその社会で生活できるわけです。
まあ、ネット社会を研究対象に選びましたのは、自分が使い始めたから、おなじみだから、という安易な理由がまったくない、とは申しません。でも、本当の動機は、この研究を開始した当時、インターネットが急速に拡大し、これが社会で一般的に使われるようになるだろう、と予測される一方で、現実に私が参加していたネット社会が、喧嘩に不正使用の渦巻く、ある意味むちゃくちゃな世界で、これが社会全般に拡大するとえらいことになりそうだ、という、至極まじめな危機感によるものでした。
もちろん、こんな研究を行ったところで、ネットの世界が正常になるわけもなく、結果は御覧の通り。昨日のNHKの番組でも、ネットの問題点を延々と議論しておりましたように、この問題は社会的にも無視できなくなりつつあるようです。ま、ここら辺は私の研究とは別の世界なのですが、ネット文化に対する無理解、無関心が招いた結果だろう、と私には思えます。
閑話休題。そこで、何故に喧嘩を分析しなければならないか、といいますと、その場の文化を分析するのに、喧嘩ほど好都合なものはないのですね。これは、今日の世界で生じている文明の対立の把握が、戦争や紛争を通して容易に理解されるのと同じ事情でして、喧嘩のあるところに文化的対立が存在する可能性が高い、というわけです。
喧嘩を科学的に分析するために採用いたしましたアプローチは、キーワード分析でして、異なる文化に属する者は異なるキーワードを使用しがちです。一連の議論を通して、交互に、異なる範疇に属するキーワードが現れた場合、そこに喧嘩がありそうだ、ということになりまして、それぞれのキーワードの性格をチェックすれば、そこで対立している文化とはいかなる文化なのか、ということも明らかになるのですね。
この研究の詳細につきましては、本ブログのホームページにおきました悲しきネットから参照できますので、ご興味がある方はご一読ください。
さて、この過程で一つ気づきましたのが、キーワードの中で最も重要なキーワードが「馬鹿」。この言葉をネットの議論に投げ込むことで、人は簡単に熱くなり、喧嘩が始まる、という次第です。もちろんこんなこと、私がやるわけじゃありませんから念のため。
こうなりますと、「馬鹿」なるキーワードがいかなる意味を持つのか、その言語学的意味に限定されない、文化的、社会的、心理学的背景を探る必要がある、ということで、この言葉に対しても、研究範囲を広げた次第です。
実は、この研究をまとめて情報処理学会の論文誌に投稿したのですが、さすがに「馬鹿」はまずかろう、ということで、実際のメッセージは伏せて、結果だけを論じたのですね。ところが、査読委員の方から、実際のメッセージも必要である、との一文を含む「条件付採録」の返答が帰ってきまして、それでは、ということで「馬鹿」てんこ盛りのメッセージを含めて再提出いたしました。
それからしばらくいたしますと、査読委員から電話がかかってきます。普通、査読委員と論文投稿者が直接接触することなどないのですが、直接電話してくるというのはよほどのことでしょう。
で、委員の方が心配いたしましたのは、他人のメッセージを論文で使用することの著作権法上の問題点なのですが、実は私、著作権に関してもかなりの知見がありまして、「公開された作品は作者に無断で引用することができる」との著作権法上の規定を完全に満足する形で引用しているのですね。(そもそも、サンプルを出せといっておいて、まずくないか、とは、話が矛盾していますよねえ。)
まあ、その場は査読委員の方も納得していただいたのですが、結果は不採録。ひどい話ですねえ。
ちなみに、不採録の正式理由は、「誕生して日の浅いネットの世界に文化があるとは認められない」というもの。もちろん、こんな言い分はこじつけ、でしょう。文化なくして何故に倫理がある、というのでしょうか。そんなものはネットに不要ということかもしれませんが、それもむちゃくちゃな思想です。
まあ、実際のところは、学会の論文誌に「馬鹿」はまずかろう、と考えたのではないでしょうかね。だから、最初ので通してくれりゃあ良かったのですが、、、
最終的に、この研究結果に基づきます論文は、イギリスの(出版元はオランダなのですが)「インターネットリサーチ」という雑誌に、もちろん英文で、採録になりまして、なんと、論文賞までいただきました。このときは、残念ながら、「馬鹿・アホ・間抜け」といった言葉を含むメッセージの現物は省略したのですが、ネット文化に対する彼我の理解の差の大なることを、改めて認識した次第です。
「馬鹿」に対する学会の反応は、以前はこんなものだったのですが、最近は「馬鹿」という用語も学術的に市民権を得てきた様子。そのうち「用語『馬鹿』に対するネット参加者の反応に関する研究」などを試みてみるのも宜しいのではなかろうか、などと考える今日この頃なのでした。