高名な物理学者ファインマンの講演記録「科学は不確かだ!」を読みましたので、その内容をご紹介いたしましょう。
1. 科学の不確かさ
あ、その前に一言。最近巷にはやるもの、ばらばら事件に汚職事件、じゃなくて、受験シーズン真っ盛り、なのですが、このファインマンの講演記録、ひょっとすると試験問題に出るかもしれませんよ。
追い込み中の受験生の方々も、勉強に疲れてぼやっとしたいとき、電車で移動中のときなどに、一通り目を通しておきますと、もしかすると、ラッキーなことになるかもしれません。ま、このブログでも、核心部分をご紹介いたしますが、、、
まず、ファインマンのこの講演は、1963年4月に、シアトル市のワシントン州立大学で、3夜連続で行われたもので、1日目が「科学の不確かさ」、2日目が「価値の不確かさ」、3日目が「この非科学的時代」と題して行われました。それぞれの日のテーマは異なっているのですが、連続性のある内容となっております。
さて、お忙しい受験生のために、試験に出そうな部分からまずご紹介しておきましょう。それは、ずばり、次の部分です。
だから科学者は、疑いや不確かさに馴れっこになっています。もとより科学的知識とは、すべて不確かなものばかりなのです。またこうして疑いや不確かさを経験するのは大事なことで、これは科学だけではなく、広く一般にも非常に価値のあることだと僕は信じます。
今まで解かれたことのない問題を解くには、未知の要素を入れる余地を残しておかなくてはいけません。そして自分のやっていることが必ずしも正しいとはかぎらない、という可能性も認める必要があります。
そうでなくて、はじめから何もかも決めてかかるのだったら、問題を解決することは、決してできないのではないでしょうか。
上の引用では読みやすくするために、私が適当に段落分けしましたが、原文では全部が一つの段落となっております。
また、英語版(The Meaning of it All)(フリーテキスト)では次のようになっております。改行は私が挿入しています。
Scientists, therefore, are used to dealing with doubt and uncertainty. All scientific knowledge is uncertain. This experience with doubt and uncertainty is important. I believe that it is of very great value, and one that extends beyond the sciences.
I believe that to solve any problem that has never been solved before, you have to leave the door to the unknown ajar.
You have to permit the possibility that you do not have it exactly right. Otherwise, if you have made up your mind already, you might not solve it.
さて、この文章でファインマンが言いたいことは、実はこの講演の全てを通して言いたいこと、なのでして、一言でいってしまえば「疑いや不確かさ」を持ちつづけることが大事である、ということです。
ファインマンによりますと、「科学の本質は不確かさである」のでして、不確かさがないところに研究する意味は存在しません。なにぶん、わからないから研究するのであって、わかりきったことを研究することは、無意味な行為なのですね。
さらには、研究の結果得られた結論も間違っているかもしれないし、もとより絶対的な正確さで測定ができない以上、その測定精度を超えた部分に、理論と現実が食い違う可能性を残しています。
これは例えば、ニュートン力学が現在は、相対性理論や量子力学により否定されてしまったのですが、ニュートン力学による予想と現実世界で生じている現象の食い違いは、日常生活ではほとんど気がつかないくらいの、微小な差があるに過ぎなかったということからも裏付けられます。
2. 価値の不確かさ
以上が「科学の不確かさ」と題する第一夜の講演内容ですが、同様なことは「価値の不確かさ」と題する第二夜の講演でも語られます。
この講演では、ファインマン自身が開発に関与した核兵器に対する価値判断が難しいということが、一例として語られます。核兵器は、ひとたび使用されれば悲惨な結果を招くのだが、それを持ってこそ、核兵器の使用が抑制されるという側面もある、ということなのですね。で、ファインマンはその価値判断を保留いたします。
ここで大いに非難されるのは、ソ連のあり方でして、講演が行われた1960年代はソ連と西側諸国の間で繰り広げられた冷戦の真っ只中であった、ということを思い出して読む必要があります。ま、今日も大して変わっていない、なんて気もするのですが。
ソ連の大きな問題は、価値を政治的に決めてしまう、ということでして、後に誤っていることが判明した学説を政治的に推してしまったため、その分野の科学の発達が遅れてしまう、という問題がありました。
学問の価値というものは、政府が決めるものではなく、自由な議論を通じて定まってくるもの。そういうあり方こそが学問を発展させる唯一の道である、というわけです。と、いうことは、価値もまた不確定さが基本である、といえるわけですね。
3. この非科学的時代
「この非科学的時代」と題する第3夜の講演は、今日的にも全くそのとおりである、といえそうです。ここでファインマンが非難するのは、現在の自らを取り巻く社会の非科学性でして、要はテレビで言っていることがいかに科学的ではないか、ということを大いに非難いたします。
ま、早い話、納豆が健康によいなどいう放送が真っ赤な嘘であった、ということがばれて、大騒ぎをしているのですが、捏造には至らないまでも、非科学的、統計の嘘的な言説がそこらじゅうにありふれているのですね。
ファインマンが非難する一つのコマーシャルトークは「気の若い人」向けのペプシコーラなる商品なのですが、最近似たような話を聞いたところでして、思わず笑ってしまった次第です。つまり、コカコーラが若者向けに新ブランドを計画している、というニュースですね。
まあ、コマーシャルなどは、ムードを煽るだけですから、これをまじめに受けてもいたし方ありません。現代人には、コマーシャルを笑い飛ばすぐらいの気構えが必要なのでしょうし、大多数の消費者は、今となっては、そうしているのではないか、と思うのですね。
しかし、これが「ユダヤの陰謀」などという話になりますと、少々穏やかではありません。今日の米国でも似たような状況はありまして、それがイラク侵攻の一因であったのではなかろうか、という気がいたします。
風説はつねに疑ってかかること、断定的な議論に惑わされてはいけない、ということ。これは、ファインマンが講演を行った、半世紀近くも昔の夜でも、今日でも、まるで変わっていないし、その戒めを強く確認する必要がある状況であることも、また、変わっていないのですね。
ま、早い話、人間という奴は、ぜんぜん賢くなっていない、という事実をまざまざと見せ付けてくれちゃうわけです。
この英語版は、ネットからフルテキストが読める様子です。引用箇所には原文も挿入しておきました。全体につきましては、こちらからご参照ください。