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物体、空間、座標系

先日のブログで、ボルンの「物体とその物理法則が空間を決定する」という表現に文句をつけてしまいましたが、これについて改めて考えてみましょう。

まず、なにが存在して、なにが存在しないか、という問いは非常に難しい問いなのですが、一応、デカルトの考え方が基本になるものと、私は考えています。

第一に、存在を否定できないものは、考えている自分自身でして、有名な言葉「我思う故に我あり(コギト・エルゴ・スム)」がその根拠となります。つまり、存在しないなら否定もできないわけで、自分自身の存在を否定するという行為は自己矛盾です。自らの存在を疑っている自分自身の存在は疑うことができない、というわけですね。

次にデカルトは、外界のモノの存在を認めます。ただしそれは、広がりとしての存在であって、それ以外の属性(色や堅さや温度など)は、人の意識のなかに生じる概念に過ぎない、と主張します。

ここで、広がり、という概念は、モノが占める空間の領域であり、空間もまた存在すると考えていることになるのでしょう。

さらにデカルトは、デカルト座標系(直交座標系)を考案し、幾何学を代数学で取り扱うことを可能としました。これはデカルトの考案でして、座標系は人の意識の内部にある概念的存在。座標系そのものが自然界に存在するわけではありません。

さて、ニュートンの「絶対空間」という主張は、全宇宙で唯一静止した空間がある、という主張なのですが、そもそも空間が動く、という考え方が良くわかりません。同じ意味で、ボルンの「互いに相対的に並進運動を行っている無限に多くの等しく正当な系―慣性系―が存在」するという主張も良くわかりません。この世界には、無数に多くの空間が重なっている、ということでしょうか?

おそらく、ニュートンの主張は、宇宙に唯一、静止した座標系が定義できる、ということであり、ボルンの主張は「互いに相対的に並進運動を行っている無限に多くの等しく正当な座標系―慣性系―が定義できる」ということではないか、と思います。それなら筋はとおります。

しかし、座標系は外界に元々存在するものではなく、人間が定義したもの。そもそも、デカルトが直交座標系を発明したから、座標系が定義できるだけの話であって、デカルト以前には座標系は存在しませんでした。ビックバン以後は、人類がいようといまいと、空間が存在していたことは、おそらく確かなことであるのでしょうがね。

さて、この世界は、3次元空間です。前後・左右・上下の3つの方向は、確かに異なる方向として区別でき、そのいずれかを他の二つの方向から作り出すことはできません。これが例えば斜め前なら、前後方向と左右方向を加えることで作り出すことができるのですが、同じやり方で上下の方向を作り出すことはできないのですね。

前後・左右・上下は、なんとなく科学的に厳密ではない、と思われるかもしれませんが、これが航空機や船舶などになりますと、きちんと定義されます。つまりは、重力の作用する方向が上下であり、機体の向かう方向が前後、これら二つの方向と直交する方向が左右ということになります。軸が3本あることから、回転も3種類定義できまして、左右軸に対する回転をピッチ、進行方向軸に対する回転をロール、鉛直軸に対する回転をヨーと呼びます。

前後・左右・上下という座標軸は、自分の船の中では有効ですが、他の船における座標系が同じである保証はありません。前後・左右の代わりに、東西・南北・上下をもってきますと、もう少し厳密に方向を定義できるのですが、東京における上下はロサンゼルスにおける東西方向に相当したりいたしますので、これも少々問題があります。米国の大陸横断鉄道は、実は、東京からみますと、おおむね上下方向に進んでいる、といっても良いのですね。

地球上の位置を表現するのには、極座標系が使用されます。これは、地球の中心を原点といたしまして、地軸(地球の自転の回転中心線)からの傾きが緯度、地軸とグリニッジ天文台を含む平面から地軸回りにとられた角度が経度でして、もう一つの次元は海抜高度、となります。海抜は原点からの距離を、同じ経度・緯度におきます平均海面との差で表現したものです。ま、これはどうでもよい話なのですが、、、

さて、ニュートンは、絶対空間のほかに、絶対時間というものを前提といたしました。ニュートンの時代には、時間は空間とは独立していると考えられていたのですが、20世紀に入り、特殊相対性理論が出てまいりますと、時間軸は空間軸とともに回転変換される(互いに並進運動する座標系間で回転変換が起こります)、ということが常識となってまいりました。

この回転変換は、通常はローレンツ変換と呼ばれる公式を使用して行うのですが、時間が虚数であると考えますと、通常の回転変換の公式がそのまま使用できる、ということも明らかになっております。このような扱いはミンコフスキーが提唱したもので、空間の3つの次元に時間を加えた4元時空の中での回転変換、となるのですね。この場合には、時間tはictという形、虚数単位iと光速cを掛けた形で、空間軸と同様に取り扱われます。ミンコフスキーの4元時空についてご興味のある方は、このブログの以前の記述をご参照ください。

ここまでを認めますと、ボルンのいう「互いに相対的に並進運動を行っている無限に多くの等しく正当な系―慣性系―が存在」するという意味は、空間に座標系をあてはめます際に、時間軸に関しましても異なる方向を向いていても良い、と言い換えることができまして、空間的な座標軸が任意の方向にとりえることと類似した扱いになります。

この、3次元空間に時間軸を加えた4元時空というもの、なかなかイメージしにくいものですので、少し解説をしておきましょう。

まず、空間軸は3つあるのですが、このうちの1つだけを取り出して、時間軸とともに平面的に表現すると、わかりやすくなります。このとき、時間軸を横軸にとりますと、これは、位置の経時変化を表すグラフになります。類似したグラフは、気温の変化や相場の推移などでおなじみですね。

一定速度(時速vメートル)で移動している物体は、このグラフ上で、直線で表され、その傾きが3次元的な速度となります。ここで、3次元的、といいますのは、4元時空においては、空間的に静止している物体も、実は時間方向に移動しているからでして、その移動速度は時速1時間。移動している物体上からみますと、自分自身は空間的に静止しており、時間方向に、これまた時速1時間で移動しております。ではこれを静止している座標系からみますとどうなるか、というのが問題です。

ふつうに考えますと、空間方向に時速vメートル、時間方向に時速1時間で移動しているということになるのですが、速度はベクトルでして、この前提は4元時空においても変わりません。つまりその大きさ(絶対値:各成分の二乗和の平方根)は、どのような座標系からみても一定でなければいけないのですね。

時間成分の速度に空間成分の速度が加わりますと、そのままでは、ベクトルの大きさが変わってしまう。このため、一定の比率で割り返さなければいけません。この比率は、√{1 - (v/c)^2}でして、時間が虚数であるために、1よりも小さな値で割り返すことになります。

こうなりますと、移動している物体上に取られた座標系の時間軸は静止している座標系からは伸びてみえ、移動している物体上の時計は、静止している観測者からみてゆっくり進んでいるようにみえる、というわけです。

このことは、非常に不思議な現象のように思われるかもしれませんが、立てた棒を傾けると、鉛直方向の長さが縮む。ピサの斜塔のてっぺんの高さは、塔が傾いたことにより、建設当初の高さよりも低くなっておりまして、時計の遅れもこれと同じ現象に過ぎません。

ま、時間が虚数であるために、空間的に傾けた場合は縮んでみえるのに対し、時間的に傾けた場合は伸びてみえる、という違いはあるのですがね。

ところで、4元時空に近いものを実際に作られた方も多いのではないかと思います。ノートの片隅にマンガを書く。ページが進むにしたがって少しずつ変化するマンガを書きまして、これをぱらぱらとページを送りますと、マンガが動いているように見えます。

このページを重ねた状態が4元時空でして、ページを重ねた方向が時間軸に相当いたします。4元時空の現象といいますものは、人の精神が時間軸を時速1時間で移動しながら観察するもの。4元時空そのものは、運動のない、凍った世界、ということになります。

まあ、凍った世界、といいますと違和感があるかもしれませんが、われわれが知りえるのは過去に起こった現象だけ。過去に起きた現象は、いまさら変更のしようもなく、まさに凍った世界であるわけです。

で、未来は、と聞かれましても、これに関しましては答えようがありません。なにぶん、未来がどうなっているのか、今のわれわれには知りようがありませんから。ただ、一つだけいえることは、未来はいずれ過去になる。そうなりましたら、これは凍った世界であるといえるわけでして、世界に一つしか真実がなく、その真実が不変のものであるならば、未来もやはり凍った世界である、といえるでしょう。ま、それがどんな世界であるのかは、わからないのですが、、、

閑話休題。4元時空の中で、物体は時間軸方向に伸びております。外部から力が作用しない場合、物体は等速直進運動をいたします。この場合、物体は4元時空の中で、おおむね時間方向に、直線状に延びていることになります。これを曲げるためには、外部から力を加えなければならない、ということは、この時間方向に直線状に延びた物体、ある種の硬さ(弾性率)をもっているということになります。

この硬さ、慣性力と呼ばれているものなのですが、何故にこの力が生じるのかは、現在のところ謎となっております。

で、実は私は、過去と未来の物体自身が現在の物体に重力を及ぼしているために、慣性力が発生するのではなかろうか、と考えております。ひょっとすると、これはトンデモ理論なのかもしれませんが、ついでにご紹介しておきましょう。

重力のような遠隔力は、光速で空間を伝わりまして、4元時空の中では、光円錐と呼ばれる円錐上の点(なんとこの点と発射点の間の4元距離はゼロ)にのみ作用いたしまして、ふつうに考えますと自分自身には、過去未来の自分自身からの遠隔力は作用いたしません。なにぶん、光速で動けない以上、自分自身が光円錐の中に入ることは不可能なのですね。

しかしながら、不確定性原理というものがありまして、物体の位置は広がりを持っております。過去、未来の物体は、物体が本来あるべき座標に対して一定の広がりをもっておりまして、その一部が現在の物体から広がる光円錐に含まれていても不思議はありません。

等速直進運動であれば、過去の自分も、未来の自分も、同じように現在の自分自身に作用いたします。このため、未来の自分が現在の自分に作用する重力は、過去の自分が作用する重力とバランスして相殺されます。しかしながら、これに加速度のある場合、例えば加速された場合には、未来の自分は過去の自分よりも遠い距離にありまして、重力の作用するバランスが崩れます。これが慣性力として観察されるのではないか、というのが私の(ひょっとするとトンデモかもしれない)説です。

ま、同じようなことは誰かが考えているだろう、とは思いますが、、、


虚数時間の物理学、まとめはこちらです。