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金子勝著「閉塞経済」を読む

本日は、金子勝著「閉塞経済―金融資本主義のゆくえ」を読むことといたしましょう。

バブルという経済現象

同書は、先日のブログでちょっと触れましたように、構造改革に批判的であり、その政治的立場が経済分析に多少のバイアスを与えているとの印象もあるのですが、バブルという経済現象に対する分析にはみるべきものがあります。本日はこの部分を中心にみていきたいと思います。

まず、著者は10ページ以下で次のように問題を提起いたします。

お金は国家の呪縛をとかれて、ひとり歩きを始めます。そしてグローバリゼーションとともに、世界中をお金が瞬時に動き回る資本主義が出現します。同時に、お金を運用するための金融商品がつぎつぎと作りだされ、いわば「お金がお金を生んでいく経済」となったのです。
……
その結果、お金は信用という仕組みを最大限利用して動くようになり、時間を越えて未来を取引するようになりました。そのために、未来の利益を先食いしたり、未来のリスクを回避したりするための証券がつぎつぎと作り出されました。……人間の「期待」が集まるところにお金も集まるようになります。
……
その結果、資本主義経済はバブル病にとりつかれ、バブルとバブル崩壊を繰り返す時代が訪れました。金融革新が行われては信用バブルが起きて、やがてそれば崩壊していく―その繰り返しが続きます。事実、1987年のブラック・マンデー、1998年のLTCM(ロング・ターム・キャピタル・マネージメント)の経営破綻、そして2007年のサブプライム危機と、10年ごとに信用バブルが崩壊するようになっています。

このような現象が起こる原因を著者は解説するのですが、少々わかりにくい説明となっております。しかし、ポイントは次の文章にあるように私には思われます。

リスクを計算するとき、100%のうちの1~2%くらいの確率でしか起きないようなパニックのようなケースは排除せざるをえません。…… そうしたケースを含めると、極めて慎重な投資しかできなくなってしまいます。…… 何より、みんなが同じようなリスク回避行動をとった場合に、どうなるかは想定していません。実際、100%のうちの1~2%くらいの確率でしか起きないような何か大きなことが起きてしまうと、みんなが同じように証券などの資産をいっせいに売るパニックになってしまいます。…… こうした想定外の事象が発生し逆回転が始まると、レバレッジを目いっぱい効かせているので、たちまちリスクはあちこちに波及してしまい、金融危機になってしまうのです。

「100%のうちの1~2%」という表現は少々妙な感じがいたしますが、これを私流に、以下のように理解いたしました。

すなわち、リスクマネージメントの観点からは、(1)発生しても軽微であるか、(2)発生する確率が無視できる程度に小さいかのいずれかであるようなリスクはテイクすることができます。著者のいう1~2%(著者は明確に書いておりませんが、1年以内に発生する確率が1~2%)のリスクは、リスクマネージメントにおいては「無視できる程度」のリスクであるということでしょう。

しかし、先の記述によれば、バブルの崩壊は10年に1度生じているわけですから、このリスクの示現する確率は金子氏のいう1~2%よりもはるかに高く、10%/年ということになります。これは、通常のリスクマネージメントの考え方からは、少々高すぎるリスクであるように思われます。

ヘッジファンドにしてみれば10年単位でビジネスを考えればよいわけで、10年に1度破綻するのは計算のうちということになるのでしょう。ベンチャービジネスの場合は、失敗確率が高かろうとも投資する価値があるとされますので、一概に高いリスクがすなわち悪いことであるとは言えません。

永遠に持続することを前提とする企業にしてみれば、10年に1度のリスクも十分に高いとみなすべきであり、これを無視することはできません。しかし、ファンドにしてみれば、年10%のリスクを無視することでレバレッジを効かせた高利回り運用を行うことが可能となり、リスクが顕在化して破綻しないかぎりは、巨額の手数料を得ることが可能となります。

こうして10年間さんざん稼がせてもらえば、10年目に破綻したところで、すでに得た手数料は自分のものであり、損失はすべて顧客がかぶることになります。これは、ファンドにはうまいビジネスですが、10年に一度のリスクをきちんと説明しないでこのようなことをしていたとすれば、このような行為は詐欺と紙一重です。

金融工学の教えるところに従えば、市場価格が唯一の合理的価格であり、金融商品の値動きで確実に利益を出す方法はありません。結局のところ、ヘッジファンドの顧客は、10年に1度のリスクをテイクすることで高利回りを手にしているだけの話です。これは、投資する者として当然意識していなければならない事実であるともいえます。

ヘッジファンドの顧客の立場は、ちょうど、保険を引き受けた(落ち目の)英国貴族のような立場であって、商船難破を知らせるロイズの鐘で己の破産を知った貴族がピストルで自らの頭を打ち抜くように、10年に一度の損失を引き受ける立場に立っているというわけです。ただ、ファンドの顧客がその仕掛けを知らず覚悟もできていないとすれば、(落ち目の)英国貴族とはずいぶんと違っております。

経済危機への対処

ファンド破綻が招いた経済危機への対処のあり方として、著者は二つの立場を紹介します。一つは供給側に注目いたします構造改革主義および新古典派経済学、もう一つは需要側を注目いたしますケインズ主義です。前者は規制緩和や経済の効率化により成長を志向するのに対し、後者は金融緩和や公共投資、減税によって不況を脱しようといたします。

この二つの立場はいずれも教科書的には正しいし、双方が混在する政策も可能ではあるのですが、現実の事態にうまく対応することはできませんでした。特に著者が指摘いたしますのが、規制緩和により国民の福祉が大いに損なわれたという点です。

著者は、今後の採るべき政策として、教育および環境・エネルギー問題の解決に注力すべきであると主張いたします。

また、自由と平等は、結果の平等までを主張すると両立せず、機会の平等までしか保障はできません。この場合、敗者・弱者に対するセーフティーネットとしての福祉もまた重要である、といたします。弱者の存在が許されてこそ、社会の中に多様性が保たれ、環境の変化に対応しうる、進化が可能な社会を作ることができる、というわけです。

著者の主張を上のようにまとめますと、これは正論であると私も思います。しかしながら、強調されていることと述べられていないことを対比して考えますと、著者の主張は少々偏っているように、私には思われます。

第一に、小泉・竹中両氏の主導いたしました政策のうち、派遣労働に対する規制を大幅に緩和した点が大いに責められているのですが、私もこの点に対しては著者の主張するとおりであると思います。特に、製造現場に派遣労働者を急増させたことは政治の大いなる失敗であったと考えております。

この問題は、第一に、経団連が政治に対する関与を強めた結果であり、政府にとって受け入れにくい法人税減税を見送る一方で、政治的力が弱体化しておりました労働者のみの犠牲を伴う派遣労働に対する規制緩和は容易に実施されたことが大きな問題であったと考えております。

本来、民主主義は自然人たる国民の主権の元に運用されなければなりません。しかし、現実には、法人であります企業の立法に対する発言力が増しております。これは民主主義の本来の姿とはまったく異なる、危険な状況であるように、私には思われます。

第二の問題は、製造派遣が必ずしも企業にとって有益ではない、という点です。確かに、短期的には、派遣労働者という労働コストの低い人材を使うことで製造コストの低下が実現されます。しかしながら、短期間の労働者の熟練は期待できず、言われたことをただするだけの人材となります。今日の製造現場では、労働者自身による創意工夫や気付きも要求されており、長期的にみれば製造現場の改善を阻害し、企業を弱体化させてしまいます。

終身雇用制を採用しておりましたわが国の製造現場がQC活動などで生産性を向上し、高品質の製品を作り上げていたのに対し、ブルーカラーとホワイトカラーの身分に厳然たる差がありました米国の製造現場が弱体化したことが、ジャパン・アズ・ナンバー・ワンの時代を作り上げたという歴史もあります。米国が日本的経営を導入する一方で、日本がその強さを失う政策を行ったのは、明らかな愚策であると私は思う次第です。

しかしながら、小泉改革がまったくの失敗であったかといえばそうではありません。公債残高の膨張を考えれば、わが国の財政がいずれ破綻するであろうことは明らかであり、小さな政府を目指す以外の道はありませんでした。これには、既得権により公費を濫費する政・官・業一体となった利益集団を解体せざるをえません。その槍玉にあがったのが道路族、郵政族でした。

このような改革は道路・郵政で十分では決してなく、さらに拡大して継続しなければいずれわが国の財政は破綻いたします。しかしながら、その後の成り行きは、小泉改革の骨抜きであり、著者が主張するような、派遣労働の問題を捉えて小泉改革は失敗であったとする主張が、その後押しをしております。小泉改革を論じる際には、構造改革と派遣労働という二つの問題は、明確に分けて論じなければなりません。

無視されている財政問題

同書の問題は、派遣の問題を俎上に載せる一方で、財政問題を無視している点であり、小泉改革を骨抜きにしようという公費濫費の利益集団を擁護する主張であるとみなされても致し方ないように私には思われます。

今日の経済情勢の深刻化は、特に財政の問題を意識せざるをえません。景気回復のために、多額の公費支出が必要となります。これを税金でまかなうことは、景気を冷やすことであり、無駄を省かないかぎりは公債残高をいたずらに積み上げることになります。

現在がデフレ傾向にあることは、ある意味で僥倖であるということもできます。一般に不景気とデフレは共存し、好景気とインフレが共存いたします。そうであるかぎり、財政出動により景気をコントロールする余地があります。最悪な状況は、インフレと不景気が共存するスタグフレーションであり、この場合の景気刺激の政策余地は極めて限定されてしまいます。

さらには、公債残高がつみあがりますと、金利を引き上げることがすなわち財政の破綻を意味することとなります。その結果行き着く最後の状況はジンバブエのインフレと同様の事態であり、多くの先進国がこのような状況に陥りました際の惨状は想像の域を超えております。

小泉改革の本当の狙いはまさにこの回避にあった、と私は理解しております。経済を論じるのであれば、最悪の事態を回避することを最重点課題としていただきたい。そういう意味で、同書は近視眼的に過ぎるように私には思われた次第です。