本日は、通俗物理学書でありますブライアン・グリーン著「宇宙を織りなすもの(上)」を読むことといたします。
この本は、草思社からこの3月2日に出たばかりの非常に新しい本ですが、細かい活字で組まれた400ページ強の上下の2巻ものでして、読み始めるにはちょっと覚悟が必要です。
内容的には、確かに最新の物理学の話題が非常にわかりやすく書かれており、それ相応の価値はあるものと思われます。ただ、わかりやすい反面、たとえ話が非常に多く、回りくどい感じもいたします。また、そのたとえ話にザ・シンプソンズという、わが国ではあまりなじみのない米国アニメ(サンプルはこちら)を用いておりますことも、わが国の読者にとっては少々わかりにくい話となっております。
上巻は、項目だけみれば以前のブログで読みました、大森荘蔵氏の「時間と存在」みたいな雰囲気もあります。目次をざっとご紹介いたしますと、次のようになります。
第1部 空間とはなにか
第1章 宇宙の実像を求める旅路
第2章 バケツを使って宇宙を探る
第3章 相対と絶対
第4章 非局在性と宇宙
第2部 時間とは何か
第5章 時間は流れない?
第6章 時間の矢という問題
第7章 時間と量子
第3部 時空と宇宙論
第8章 対称性と時空
第3部は下巻に続いておりまして、下巻では、ビッグバン後の宇宙論として最近話題になりました「インフレーション理論」や、相対論と量子論の統一に期待がかかります「超ひも理論」、そして最近話題の「量子テレポーション」などが紹介されます。
上巻は基礎理論、下巻は最近の話題、といったところでしょうか。
時間に関しましては、わたしがこのブログで議論いたしましたのとほぼ同様な趣旨となっておりますが、絵を多用しており、説明が非常にわかりやすくなっております。著者いわく、時空とは食パンのようなものである、というのですね。で、食パンの長い方が時間軸でして、「今現在」とは食パンを切った断面である、というわけです。
食パンは斜めに切ることもできまして、どういう角度で切るかは観察する人の運動に依存いたします。こうなりますと、切り方次第で時間の後先が変わってしまいます。これがアインシュタインの特殊相対性理論の不思議な結論であります「同時性の問題」というわけです。
このあたりは、言葉で説明してもわかりにくいでしょう。書店で同書を手に取られて上巻110ページあたりの図を見ていただければなるほどとわかっていただけることと思います。
さて、わたしが興味を持っておりますテーマの一つが量子力学の「観測問題」でして、いわゆる「シュレディンガーの猫」の問題をどう解釈するかという問題です。
わが国におきましては、「観測されるまで複数の状態が重なり合った状態にある」とする、いわゆる「コペンハーゲン解釈」が主流でして、以前のブログでもご紹介いたしました「別冊数理科学―量子の新世紀」でも、「コペンハーゲン解釈」「多世界解釈」「隠れた変数論」の3つを代表的考え方としてあげております。
しかし、グリーン氏のこの書物ではコペンハーゲン解釈が、通常言われておりますような「波動関数の重なり合い」という形では現れてはまいりません。
まず第一の解釈といたしまして、人の知識の変化とする、次のような解釈を紹介いたします(p337)。
一つのアプローチは、歴史的にはハイゼンベルクにさかのぼり、波動関数は量子的宇宙の客観的な特徴を表しているという考えを捨てて、波動関数は宇宙に関するわたしたちの知識を表しているに過ぎないと考える。この立場によれば、測定を行うそのときまで、私たちは電子がどこにあるかを知らない。そして、電子の位置を知らないという事実が、さまざまな場所に存在する可能性として電子を記述する波動関数に表現されている。しかし、電子の位置を測定したとたん、電子の位置に関するわたしたちの知識は突如として変化する。今や私たちは、電子の位置を、原理的には完全な精度で知っているのだ(不確定性原理から、電子の位置を知れば速度はまったくわからなくなるが、このことは今の議論では重要ではない)。
原著“The Fabric of the Cosmos: Space, Time, and the Texture of Reality”では以下の通りです。この原文は、Google Booksから参照することもできます。
One approach, with historical roots that go back to Heisenberg, is to abandon the view that wavefunctions are objective features of quantum reality and instead, view them merely as an embodiment of what we know about reality. Before we perform a measurement, we don't know where the electron is and, this view proposes, our ignorance of its location is reflected by the electron's wavefunction describing it as possibly being at a variety of different positions. At the moment we measure its position, though, our knowledge of its whereabouts suddenly changes; we now know its position, in principle, with total precision. (By the uncertainty principle, if we know its location we will necessarily be completely ignorant of its velocity, but that's not an issue for the current discussion.)
これは、わたしの以前の日本科学哲学会での発表とほぼ同じ趣旨でして、もちろん、この説を裏付けるためには、物理学とは何であるのかという点についての議論が必要であるわけで、わたしの発表はそちらに重点を置いたものでした(以前のブログもご参照ください)。
しかし、この解釈が実は正しい「コペンハーゲン解釈」の理解であるのかもしれません。なにぶんハイゼンベルクはコペンハーゲン学派の代表的人物ですから。少なくとも、グリーン氏のこの書物を読む限り、俗にコペンハーゲン解釈といえば必ず出てまいります「状態の重なり合い」が中心概念なのではなく、「人の知識の変化」がポイントであるということになります。
このあたりは目からうろこの部分でして、こういう話なら非常にわかりやすい話です。つまり、シュレディンガーの猫の思考実験も、「箱の中を見ていないのだから猫の生死はわからない」というあたりまえの話になります。
さて、グリーン氏の列挙いたします、観測問題に対するその他の解釈としては、第二が「多世界解釈」、第三が「隠れた変数」です。さらに、グリーン氏は第四の解釈として、シュレディンガーの波動方程式に多少の修正を施して、非常に低い確率で波動関数が収縮するという説を紹介いたします。
次に、グリーン氏は「デコヒーレンス」という考え方を紹介いたします。これは特に、シュレディンガーの猫のパラドックスを解釈するのに有効な考え方であり、アルファ線がガイガーカウンターを鳴らした時点で波動関数は収縮していると考える説です。
このブログでも以前議論いたしましたが、波束の収縮は人が観測するかしないかに関わらず生じているはずです。たとえば、二つのスリットを用いた電子線の干渉実験において、スリットの一方に電子線の検出器を設けますと干渉は起こらなくなります。干渉の有無は検出器が存在するかしないか、検出器が電子に擾乱を与えたか否か、によって決まるはずであって、検出結果を人間が観測しようがすまいが関係はないはずです。
干渉が起きたか否かは写真乾板をみればわかります。シュレディンガーの思考実験でも同様の話なのであって、シュレディンガーの猫は、写真乾板と同じ役割を果たしているだけのことであると、わたしは考えております。
かつて物理法則は、この世界の絶対的な真理であると考えられてまいりました。20世紀に入りますと、物理法則は仮説であり、いずれ否定される可能性が意識されております。こうなりますと、物理法則は人間精神による世界の叙述というしかありません。
しかしながら、以前のブログに書きましたように、物理法則は外界に属するとの考えもいまだ支配的です。
以前のブログに書きましたように、人は外界(世界R)から情報を得て、自らの主観世界(世界C)の中に外界のコピー(世界R')を形成いたします。その際に概念やら法則などを付属させます。物理法則は、確かに外界(世界R)に関わる存在なのですが、外界そのものではなく、人の精神の内部に形成された外界のコピー(世界R')に付属する概念であり、主観世界(世界C)の一部です。
人が感覚器官で外界の像を取り込み、脳の内部に外界の像を作り出しているということは、誰も否定しないでしょう。しかし、人は、自らの脳の内部に形成された外界の像を外界そのものとみなしております。これも当然の話なのであって、人は外界を知るために目で見、指で触れているのであって、脳の内部に作り出された外界を「脳内に形成された外界の像」などと考えるはずもなく、これを外界そのものとみなすのもまたあたりまえといえます。
しかしながら、脳科学が発達してまいりますと、人の認識メカニズムが研究の対象となり、人が外界をいかに認識するかということを考えざるを得なくなります。人が外界を認識するというプロセスは、世界Rの情報が世界R'として取り込まれるプロセスであり、世界R'と世界Rとを別個の存在として扱う必要が生じてまいります。
養老孟司氏の「唯脳論」文庫版の解説の中で脳科学者の澤口俊之氏は以下のように述べております。
しかし、私は本書を読んだ当初、まったくもって不明にも、「世界は脳だ!」と主張していると誤解をしてしまった。……
やがてこの誤解は解けたのだが、そのときから、実は、脳科学者としての観点からみて、ある種の「歯切れの悪さ」を本書に感じてしまうようになった。むしろ「世界は脳の産物だ!」と言いきってほしかったのである。なぜなら、「世界は脳の産物」という考え方の方が、現代脳科学での見方に近いからだ。
「世界は脳の産物である」と言い切ってしまいますと、これは唯心論の世界になってしまい、それでは科学とはいったいなんであるのか、という問題が生じてしまうでしょう。哲学の論争が極端から極端に走りがちであるのは、世界を唯一つと考えるからではなかろうか、と私は思います。
世界とは、その上に論理が形成される基底であり、概念の全体集合であり、情報を固定・処理する主体に結び付けられております。
「世界R」とは、外界、自然界に対応するものであり、物質粒子自体が位置や運動量などの量(情報)を保持し、それ自体の自発的な働きによりその姿を変えております。
「世界C」は主観の世界であり、人の脳が世界を解釈し、常識を学び、自らの身体運動を律しております。
そして、「世界S」は社会システムにおける情報の固定・処理によって成り立つ世界であり、文化常識を作り出し、そこに属するすべての人々の主観世界にこのコピーを形成させようと努力しております。つまり「教育」と呼ばれる社会の働きもそこには含まれております。
世界Cの内部には、世界Rのコピーもあれば世界Sのコピーもあります。世界Sには世界Rのコピーがあります。そして、世界Sは世界Cの集合体として成り立っており、世界Sも世界Cも、世界Rに属する物質の上に形成されております。
これら三つの世界は、一見したところでは複雑なインタラクションをしているようにみえますが、情報処理システムなり情報処理の主体という観点に立てば、比較的容易に理解することができるでしょう。
そして、これら三つの世界で行われていることを区別して扱うことで、哲学・思想上の、あるいは物理学の基本に関わる多くの疑問に容易に解が見出されるようになる、と私は考えております。(続き)