前回と前々回のこのブログで、原発に関わるリスクマネージメントについて議論いたしました。リスクマネージメントという観点からは、保険をかけるなどしてリスクを転嫁するか、原発などは用いないこととしてリスクを回避することは正しい判断ということになります。しかしながら、これだけではわが国の原発のあるべき姿を考える上では、一面的であろうかと思います。
わが国の原発を考える際、三つの視点が重要です。
その一つは、前回、前々回に論じたリスクマネージメントという視点であり、不幸にして事故が発生した場合も電力会社が破綻することなく、事故処理や被災者への保障がきちんとできるよう、あらかじめ手を打っておく、という点です。
第二の点は、わが国の中長期的エネルギー政策をどうするかという点であり、将来のわが国のエネルギー源として原子力が必要であるのかそうでないのかという議論が必要です。
第三の点は、わが国の原発の事故リスクに対する評価であり、予想される事故の確率があるべきレベルに対してどの程度の水準になっているかという点です。仮に、原子力発電を行うことで得られる電力会社の利益が事故による損失の期待値より十分に大きかったとしても、電力会社の利益など原発周辺住民には関係のない話であり、予想される事故の確率そのものも許容される頻度以下に抑えなければなりません。
その他、喫緊の課題として電力需給の問題がありました。上記三点の結果を踏まえた上で、問題がなければ原発運転を再開すればよいのですが、仮に問題がある場合であってもその程度によっては緊急避難的に運転すべきという結論もありえます。
と、いうわけで、最初に掲げました三つの点について、現状を評価してみたいと思います。
まず、リスクマネージメントという観点からは、当初の対策はまったく不足しており、現状もなんら改善はされておりません。最も簡単で現実的な対処は、500年に一度12兆円の保険金支払いに対応する形で保険料を100倍に増額することです。この保険は国家が引き受け、一定の免責額を設けた上で青天井の保障とすることが好ましいと思います。保険料を100倍に引き上げた場合の電力コストへの影響は、1事業所あたり120万kW程度の発電規模であれば2円/kWh程度のコストアップとなり、既設の発電設備であれば十分に経済的に運転できるレベルでしょう。
第二に、わが国の中長期的エネルギーをどうするかという観点からは、原子力エネルギーを捨てるわけには行きません。化石燃料が枯渇するまでに、自然エネルギーが十分に経済的に利用可能となるか、核融合技術が実用化されれば良いのですが、現在のところその見通しは立っておりません。そのような状況で、原子力エネルギーを捨て去るという判断は将来に対してあまりにも無責任であるように、私には思われます。
第三の、わが国の原発の事故リスクですが、現在の保険料算定基準が700事業所年に1度の事故を前提としていることは、福島の事故の実績からやむをえないのですが、おそらくは将来の事故確率はこれよりもかなり低いレベルであると思われます。ただし、わが国の原発がほとんど海沿いに設置されており、津波のリスクは依然として無視できません。ではそれがどの程度の事故発生確率であるかとなりますと、雲をつかむような話なのですが、福島の原発事故が1000年に一度の津波で生じたこと、既存の原発には津波対策が施されていること(ただし堤防のかさ上げ2倍以下程度である)ことを考えますと、4千年に一度程度の事故頻度までは改善されている可能性が高そうです(参照)。問題は、これで十分であるのか否か、ということになります。
国際的に影響力のあるIAEAですが、ここが原発事故頻度と目標確率を発表しております。これによりますと、現在の国際的な原発の事故確率は一万炉年に1回であり、これを10万炉年に一回程度まで引き下げるよう提言しております。そして、この目標頻度は先進国においては十分に可能であるとしております。世界一安全な原発を目指しておりますわが国といたしましては、当然のことながら、10万炉年に1度の事故確率を目標とすべきであり、少なくとも1万炉年に一度程度の事故確率以下の事故頻度は早急に達成されてしかるべきでしょう。
現在わが国に設置されております原発の事故リスクに関しては、きちんとした確率的議論が必要です。これを行いましたとき、果たしてわが国の原発がこの目標に合致しているとの結果がでるかどうかは、きわめて疑わしいと私は危惧しております。もしもこの悪い予感が当たってしまいますと、わが国の既設の原発は廃炉の方向に向かうのが正しいこととなります。もちろん、前に論じましたような、電力需給の観点から緊急避難的な対応はありえるのですが。
と、いうわけで、私は原発反対派でもなければ推進派でもありません。原発に関しては両極端の存在しか許されないような空気が日本を支配しているのですが、私は技術者としての良識を保ち続けたいと考えております。むしろそうでなければサイエンティストとしても哲学者としても、自殺行為であるように思うのですね。それが許されないような空気が支配しております現在の姿は、きわめて異常な状況であるように私には思われます。
そもそも、原発のような大規模なシステムにおいて完全無欠の技術なんてあるのでしょうか。そんなものがあるなら、これは特筆すべきでしょう。ちなみに、今日の世界の英知は、そんなものは存在しないという結論にとうに到達している、というのが私の理解です。そうではない、というご意見はございますでしょうか。もしもそんなことがありえるなら、これはこれで重要な知見です。ぜひとその具体例をもお聞かせください。
いかに安全な原発といえども事故を起こす確率はゼロではない。これをゼロに近づけるのは、危険な要素を掘り出して一つ一つ対策するプロセスを通して以外はありません。そうする責任は推進する側にあります。左翼がくだらない論説をいくらしようと、これが免罪符になるわけではありません。自らがなすことの責任は自らにある。この大原則を忘れず、謙虚な姿勢を貫き通す。そのようなあり方を私は原発関係者にお願いしたいと思います。そうでなければわが国の原子力利用など簡単には進めることができません。
その足を引っ張るのが原子力村の存在であり、そのような存在を可及的早急に消し去ることが、わが国のエネルギー政策の最優先課題であるともいえるでしょう。そよのうな存在は福島の事故以来消滅してしまった、というのが政府の公式見解であるようにも思われるのですが、アゴラを見ておりますとこの種の人々は依然として影響力を持ち続けているようにしか思えません。ここはきっちりと批判し続けることが、日本の未来のためにもまずは必要な第一歩であると私は考えております。