本日は、西垣通氏の「集合知とは何か―ネット時代の『知』のゆくえ」を読むことにいたします。
開放系と閉鎖系
まず、この書物を最初だけ読まれた方は「反原発本」などという印象を受け、人によっては同書を投げ捨ててしまうかもしれません。でも、同書の価値は、このブログでもたびたび取り上げております「主観」と「客観」を情報理論的に扱う稀有な書物である、という点にあります。
まあ、そこがわかっているから原発をめぐる今日の日本社会の問題点も浮き彫りになる、という側面もあるのですが、、、
この本の内容に関しましては、実物を読んでいただくのが一番。特に注目すべき西川アサキ氏の研究内容を紹介した部分に関しては、sameo氏の「【続】観察・実験ノート」に詳しい説明がありますのでそちらをご覧ください。
ただし、上のリンクでも違和感を抱かれているように、「開放系」と「閉鎖系」というネーミングには少々問題がありそうです。ここでいう「開放系」とは、「みんなが同じように考える」という意味でして、「閉鎖系」とは「多様な考え方が維持されている系」であるのが実際のところです。前者は、空気を読んで右に倣えをしてしまうような状況で、後者は一人ひとりが自分の頭で考えて多種多様な結論を出しているとみなすこともできます。そう考えればこの結論、つまり開放系は不安定であるが閉鎖系は安定であるとの結論も、納得がいくところです。ここは、「開放系」と「閉鎖系」の代わりに「均質系」「多様系」などとした方がしっくりといたします。
私が慣れ親しんでおります株式市場でも、右に倣えの開放系ではバブルとその崩壊が定期的に繰り返されてしまいます。それぞれにファンダメンタルを読み、安ければ買い高ければ売るという、どこぞの裁判官が「慄然とせざるを得ない」ような人たちが多数を占めておれば市場は安定するわけで、市場は本来そういう人々から成り立っていることを前提としておりました。であるにもかかわらず現実がそうなっていないことが、今日の最大の問題であるように、私には思われます。
主観と客観
さて、同書の一つの問題は、「主観」「客観」を扱いながら、これらがいまひとつはっきりとした概念として提示されていない点にあるように思われます。
まず、「クオリア」に西垣氏は注目するのですが、これを「主観」とほぼ同様な概念として扱っておられます。一方、「客観」につきましては普遍妥当の意味で使用されております。では物自体の世界はどうなっているのかといいますと、あまり明瞭な記述はなされておらず、同書のいう主観、客観のすべてが物自体の世界にあると考えておられるように見受けられます。
元々「クアリア」の概念のいかがわしいところは、これが主観世界に属するものでありながら、あたかも物理世界、つまりは物自体の世界の存在であるかのごとく扱われている点にあるのですが、西垣氏の書き方をみておりますと、主観も客観も全て物自体の世界の存在であるかのごとき印象を受けます。
しかしながら、科学全般が立脚しております「物自体を扱う神のごとき視点」にたつのであれば、クオリアなどは存在せずに単に脳という器官の内部で生じている物理現象があるに過ぎないとすべきところでしょう。内省によって得られたクオリアという概念を論じるなら、自らの心の内部を論じていることにほかならず、主観的視座にあることを意識しなくてはいけません。
これは、科学的に主観と客観を論じる限界であるようにも思えるのですが、それにいたしましても、こういう議論ができるだけでもすごいことであるように思います。カントの思想が情報理論で説明されるようなことがありますと、これは21世紀の人類がなしえた大いなる進歩となるでしょう。
脳と社会
同書と西川氏の議論で興味深い点は、西川氏が脳の働きを議論しているのに対し、西垣氏はこれを人間同士のコミュニケーションに援用している点です。脳内で生じている現象とネット内で生じている現象が極めて似通っておりますことは、このブログのトップページに置きました私の日本科学哲学会での発表でも述べておりまして、それこそが主観と客観を生み出す基盤となっていると私は考えております。
同書での西垣氏の議論が同様な視点に立っておりますことは、私にとりましても大変心強いことであるように思われた次第です。
あとは、物自体の世界と客観世界を分離すること、カントやフッサールの思想との関連性をきちんとつけること、おそらくは古いインド思想との関連性もつけておく必要があるでしょう。なにぶん学問といいますものは、過去の知見を尊重し、その上に新たな知見を積み上げていくもの。分野が異なるといいましても同じ課題を扱っている以上、先人の業績を無視することは少々問題であるように思われます。
ともあれこの本は、今日の人類の英知は良いところまで来ており、あと一歩でブレークスルーに到達するのではなかろうか、などという期待を抱かせる一冊であったことは事実です。
もう少し書き足す予定でしたが、なかなか先に進みません。とりあえずこれで良しということといたします。