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養老孟司著「バカのものさし」を読む

本日は、馬鹿本の一つでもあります、養老孟司著「バカのものさし」を読むことといたしましょう。

同書の成り立ち

同書は、 イースト・プレスから出ておりました、よりみちパン!セシリーズの「バカなおとなにならない脳」を大幅に改定して扶桑社文庫化したもので、 よりみちパン!セは「ヤングアダルト向けのサブカルチャー的な『教養書』の叢書」とのことですが、内容は、小学校高学年から、中学生程度を狙って書かれている様子です。

つまりは、わかりやすい、ということは大いに良いことであり、かつ、書かれている内容は相当に高度です。

脳のはたらき

まず、読んでいただくのが一番早いと思いますので、同書の重要箇所を引用してしまいましょう。

最初はp.22からの、脳の働きについて述べている箇所です。まずは、脳の構造と、なにが起こっているかということが述べられます。

要するに、五感として刺激を「入力」し、その結果を「運動」として「出力」しているのが、脳の働きだということになります。

ところで、入るほう、つまり「入力」は、五感で行われるので五つありますが、出るほう、つまり「出力」は、筋肉を収縮させるということだけしかありません。

ここでもう一つ大切なことは、筋肉を収縮させる、つまり動かすということは、必ずその外部に影響を与える、あるいは外界が変化する、ということです。また、そうやって、何かを「する」という出力は、かならずそれにともなう入力または入力の変化を引き起こす、と言えます。で、またさらに、その入力により、出力がなされる。そのくり返し。つまりここに、くり返しのループができるっていうことが脳の働きの基本だということなんです。

そして、同じことの繰り返しで脳の中に知識ができあがって行く、ということですね。ディープラーニングを思い浮かべていただけば、脳がどうやって知能を獲得するかがご理解いただけるかと思います。

脳はくりかえすことで学んでいく

で、脳の活動は、ずっと一生その繰り返しなんです。だから根本的には脳は、このくり返しでつくられます。しかも、毎回くり返しているようでいて、少しずつらせん状に上っていくみたいに、そのくり返しから、いつの間にか脳は変わらない規則を学習していくんです。一回ごとのくり返しをすべておぼえていたら脳は破裂しいちゃいますから、そういうことは脳は関知しないのです。脳がやるのは、くり返しやってもいつも変わらない、ということの規則を、いつの間にか学習しているということなんです。

この学習が積み重なると、どうなるか。

たとえば、比例する二つの三角形。一つは遠くにあって、一つが近くにあるとするでしょ。それをしょっちゅう、いろんなところから見ていると、最終的に脳ミソが何をおぼえこむかというと、比例関係なんです。そんなふうに、脳はあっちからもこっちからも、いろんな距離から見ているあいだに、変わらないこと、変わらない性質だけを、覚えていくんです。

で、算数で比例を習うと、ふつうはキミたち、外側に「比例」という規則があって、その、外側にある規則を自分が学んでいるんだ、なんて思っているでしょう。

ぼくが言いたいのは、キミの頭の中に、くり返し学んだすえにすでにわかっている「比例関係」がじつは最初からあるんだっていうことです。むずかしく言うと、外部的に外側から説明してもらうと、頭の中にあるから、わかる、ということ。それが脳の働きというものなんです。ふつう考えるのと、ちょうど逆でしょ。

それと同じことで、きみたちは学校で、外からいろいろ教えられるもんだと思っているでしょう? でも、そうじゃない。わかるというのは、もともと自分の中にわかるだけのものが、ループのくり返しによりでき上っていて、それを外から説明されるから、わかるんだ。

ディープラーニングに欠けているもの

最初の部分は、ディープラーニングと同様の現象が起こって脳内に知識が獲得されるということ。そして、そういう知識に、外部から規則を教えられて、元々あった知識と外部から与えられた規則が一体となる、ということなのですね。

これは、ひょっとすると重要な指摘かもしれません。ディープラーニングでやっていることは、前半だけ。前回ご紹介した三種類の知性の分類でいえば、ディープラーニングがしていることは悟性部分のシミュレートであり、理性の部分は現在のAI研究からは抜け落ちているかもしれません。

そういえば、以前検討された第五世代コンピュータは、今にして思えば無謀な試みともいえる並列マシンはともかくとして、狙いは人工知能的なコンピュータにあり、述語論理による推論が機能として考えられておりました。この推論は、言語化された知識、数値化された知識に基づいて、論理的な推論を行うわけですから、知性の分類に従えば理性的部分を機械で実現しようというもの。

これは、もしかすると面白いポイントかもしれません。つまり、今日のニューラルネットワークとディープラーニングに基づくAI技術に、第五世代コンピュータで検討された推論のメカニズムを組み合わせることができると、理性と悟性を兼ね備えた、「改革者」なり「エリートスーパーマン」なりといった、投資銀行にいるようなすごい人の持つ知性ができあがる、かもしれません。

最近の子どもの問題

p.176からの「最近の子ども、先生は何が一番問題だと思われますか?」という節の記述は、養老氏の論理が少々脱線気味であるようにも思えますが、鈴木大拙師の記述にも通じる、重要な内容を含んでいるようにも思えます。まずは、養老氏の記述を読んでいきましょう。

こどもの、いろんな問題をゲームのせいにする、携帯のせいにする、情報量のせいにする……。そういう、何かあればすぐ何かのせいにする、っていう考えは、ああすれば(すぐに)こうなる、という現代の考えに、おとながいかに毒されているかということだと思います。だいたい、そういうものを作っているのは、おとなじゃないですか。

そじゃないんです。そういう発想でかたづく問題しかかたづけてこなかったので、かたづかない問題が、みんな積み残しになっているということです。

人間の性質というのは、どうしたらどうなるか、非常にわかりにくいものでしょう。ご質問のような問題に正確に答えようと思えば、それこそ、くり返しになるけど、百人なら百人、千人なら千人の子どもを、ニ十歳くらいになるまで、ずーっと、記録にとって、過去においてどういうことをしてきたか、現在どうか、その相関を統計的に調べてから、ということになるのでしょう。

--- この部分に論理の飛躍があります ---

でも、そんなことは、昔の人が稲を育てるときに、当然のこととしてやってきたことですよ。自然っていう、簡単に手なずけられないものを相手に、からだの中に蓄積された経験で何とかしてきた。だって、誰かから、こういうふうにすれば単純にうまくいくとかいわれて、ただそのとおりにして、もしもうまくいかなかったら、秋になって、飯が食えない。だから必死ですよ。

要するに、そうならないためには、毎日毎日見てなきゃならないし、ちょっとでもマズイなと思ったら、なんらかの手を打たなきゃならない……、それをしょっちゅうしていたわけで、それを手入れって、言ったんですよ。前にお話ししてますが、子どもだって、本来、自然ですからね。

ともかく、そういうことをやっていると自然についてくるのが、結果的に努力、辛抱、根性なんです。頭で、努力、辛抱、根性を考えたって、どうにもならない。

子どもは、おとなのやってきたことに、直接的に影響を大きく受けてるんですよ。おとなの作った社会で生きているんですから。

社会を、そういう社会にしちゃったんです。それがいっぽうで、好きな道を選びなさいとか、無責任なことすら言っているわけじゃないですか。

この引用箇所以外でも、人が正常な脳を形成するためには、人を相手にするだけでなく、自然を相手にしなくてはいけない、ということを、養老氏は繰り返し語っているのですね。上の引用部では、この話が省略されてその先の論理が展開されてしまうため、話が分かりにくくなっております。

自然を相手にする意味は、最初の節で説明した脳の知識獲得のメカニズムによるものであり、まずは、自然界を相手に、その複雑さや、パターンを体で覚え、これに人間社会から入ってくるさまざまな規則なり、学問的蓄積なりが加わって人の知恵が形成される、というわけです。

だから、こどもがまともな脳を持つためには、自然に触れなくてはいけない、ということを養老氏は強調するのですね。

鈴木大拙師の「大地」との共通性

これを読みますと、「鈴木大拙著『日本的霊性』の『われ一人』と『大地』」なるエントリーで扱いました大地の働きに共通するものが見えてまいります。「日本的霊性」のこの部分を以下に再録いたしましょう。

この教文でうかがい知られることは、第一に親鸞の宗旨の具象的根拠は大地に在ることである。大地というのは田舎の義、百姓農夫の義、知恵分別に対照する義、起きるも仆(たお)れるも悉くここにおいてするの義である。

大地が政治的・経済的に意味をもつものである事実は言うまでもないのであるが、またこの事実によりて、大地は我らの肉体そのものであることも了解できるであろうが、親鸞宗の大地はその宗教的意義すなわちその霊性的価値である。

もちろん、こどもの脳の形成と、親鸞の宗教的天啓とを同列に論じるのはおかしな話ではあります。でも、そのポイントは同じところにあると思うのですね。つまりは、論理ではない。悟性が獲得する、ニューラルネットワークの形成である、というわけです。それには大地の働き、大地との触れ合いが必要だという点で、大拙師の親鸞と、養老氏の子どもは相通ずるものがあるのですね。

研究開発や教育でも大切な自然

鈴木大拙師の禅の思想が米国の若者たちに大きな影響を与え、ヒッピームーブメントやウッドストックが形づくられていったのですが、その中で重視されたものが「Back to the Nature」のスローガンに代表される、自然とのふれあいなのですね。そしてこれらの思想を受け継いだ人たちが、米国の情報産業をリードしていった。

その創造性の一つの要素が、彼らの自然との触れ合いの中で形づくられていたとすると、我が国の技術開発が創造性を取り戻すために一つしなくてはいけないことが自然との触れ合い、ということになるかもしれません。

イケハヤランドは(イケハヤ師は、興味を失ってしまったのかもしれませんが)その一つですし、鉄腕ダッシュでいろいろとやっているようなことも良い試みといえるでしょう。

そういったことを、創造的な開発環境の中に組み込んでいく、あるいは、教育の過程にそのようなカリキュラムを取り入れていくことも、考えた方が良いのではないか、そんな気にもなります、養老氏の書物ではありました。